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「夏の雲は忘れない」を読み返しながら、理不尽な生と死に向き合う日。

「げんしばくだんがおちると ひるがよるになって ひとはおばけになる」(小学3年、坂本はつみ)

 毎年、「夏の雲は忘れない」のこの一節を思い出しながら、理不尽な生と死に向き合って生き続けることの本質を考えています。いつからか8月6日と8月9日は、誕生日よりも、自分の生き方について考える日になっています。

 「自分が死ぬ覚悟はできても、相手の兵士を殺す覚悟はできやしない」という兵士の言葉を反芻させます。ルワンダジェノサイドで、加害者と被害者が共存するコミュニティに敬意を覚えます。現代の日本でも、違う形で、こうしたことが常に存在していると思います。

 小学4年生の時、原爆ドームを見た当時の自分が描きあげた絵はもう残っていないけれど、今でも唯一、鮮明に思い出して描くことができる絵です。原爆ドームを訪れ、戦争を知り、当時ガザ地区の内戦を取り上げた記事をスクラップしては、「理不尽な生と死」について考える日々を過ごしました。

 理不尽な生は「障害」や「社会の都合」といった形で訪れるし、理不尽な死は「事故」や「病気」そして「戦争」といった形で今も唐突に訪れるものだと思います。

 中学に入学してすぐ、特別支援学級の友人や訳あって運動部に入れない友人と立ち上げた「科学部」で、当時「運動部じゃないなんて格好悪い」「なんであいつと部活しているの」という暴力のような同調圧力と闘いながら、理不尽な生と向き合う友人の姿を見ていました。

 その人の中にある多様性のどこか一つが、他人や環境から認められないとき、人は理不尽な生を感じてしまうことがあります。「なんでこの身体で、なんでこの社会に生まれてきたんだ」と思ってしまうとすれば、それは全て社会の側に障害が存在していると強く思います。

 ガザ地区で内戦に巻き込まれている同世代の子供たちの記事。「夏の雲は忘れない」を通して想像することしかできない同世代の子供たちの気持ち。理不尽な死と向き合う時、それは常に想像を働かせることでしか向き合えないもどかしさを感じることでもありました。だからこそ、スティーブ・ジョブズの言葉をいつも思い出します。

「もし今日が自分の人生最後の日なら、
 今日やることを私は本当にやりたいだろうか?」

 既に起きてしまった理不尽な死について想像する時、同時にこれから訪れるかもしれない理不尽な死に向き合う自分と出会います。そして想像力を働かせながら、今日という一日に向き合って生きることを選択する日々です。「障害という言葉の無い社会」を目指して日々を生きながら、去年よりも何ができるようになったのか、常に自問し続けています。

 戦争を通して、人の中に存在する多様性に敬意を払い、極限状態で表出する人間性も認め、理解することができます。理不尽な生と死について考えながら、常にその理不尽さと闘って生きていきたいと、昨年よりも、一昨年よりも、今一番、強く思っています。

理不尽な死が今を輝かせる。

 過去でも、未来でもなく、今を輝かせてくれる。

 そして理不尽な死は、過去でも未来でもなく、今に訪れる。

 幸せは今にしかない事を気付かさせてくれる。

理不尽な生が、幸せに気づく契機になるかもしれない。

そんなことを、軽々しく言える社会だろうか。

常に問い続けながら、理不尽な生と向き合いたい。


 来年の8月6日、そして8月9日にまた「夏の雲は忘れない」を読み返したいと思います。過去から得た教訓と想いで、未来をつくっていくために。これまでも、これからも。




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