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『グヤバノ・ホリデー』


ある街の夢をもう何年も、繰り返し、繰り返し、視ている。

その街はいつもぼんやりとした夕方の中にある。
私は大抵の場合、その日越してきたばかりだ。黄色や白が夕方に染まって色とりどりのオレンジになった街並みは、シチリアのソレに似た造りをしている。軒先にフラワーワゴンが出ている建物を見て、あれは花屋かな、と予想する。

だが、それをまじまじと見ることはできない。なぜなら私は家財を持ってリヤカーをひいているからだ。
この街は、なかば球形とも言うべき坂道で出来ている。かと思えば次の瞬間には体が斜めになってしまうのではないか、と思うくらい直線的な勾配になることもある。気を抜くとリヤカーは転がり落ちてしまうだろう。
不運なことに、新居は、その坂道を登りきったところにあるのだ。まだ1度も見たことがないのに、なぜか、そう、確信している。
そのようにして、すべてが困難で住むには不適切であるはずなのに、不思議と私はこの街のことを好いている。
叶うことならばずっとここに居たい、とすら思う。


それでも坂道を半分まで登ったところで、いつも目が覚める。


直前まで、あたたかく、おだやかで、心地好い世界にいたのに。目が覚めると大抵そんな気分になる。あの街にいる時だけではない。
夢を視たあとの目覚めは、毎回そうだ。
夢を視るのが好きだ。その分、夢の中で夢だと気づいてしまう瞬間が、あまり好きでない。
夢は脳の記憶処理だと聞くが、なるほどそうかと思う夢もあれば、どの部分の記憶を処理しているのだろう、と思う不思議な毛色の夢もある。
そうして、そんな夢にはついつい、魅了されてしまう。

ずっとずっと、不思議で、おかしく、どこか懐かしい夢を視ていたい。

そんな願望をこの世で唯一叶えてくれるのが、panpanya作品だ。

本屋でマンガの新刊コーナーを見ていて、ちょっと違うオーラを放つマンガがあれば、それがpanpanya作品だ。大抵の場合は、聞いたことのないタイトルのマンガと一緒に、平積みでもなく1冊だけ棚に置いてあるのだが、それでも毎回きちんと、見つけることができる。
そんな風にして、出会って以降のpanpanya作品はなぜかすべて発売月に入手できている。もちろん、私が本屋に足を運ぶ頻度が高いというのもその理由のひとつではあると思うが、それだけではない気もする。

思えば、出会いからしてそうだった。

ある日いつものように本屋の新刊コーナーを見ていた私は、膨大な背表紙の中から“ちょっと違う”マンガを見つけた。それがpanpanya作品なのだが、惜しくも最初の一冊がどれだったかは忘れてしまった。今、なんとか思い出せないかと思って既刊のタイトルを見ていて、どれが最初の一冊でも不思議ではないな、と思った。

『足摺り水族館』
『蟹に誘われて』
『枕魚』
『動物たち』
『二匹目の金魚』

まるで詩集のようなタイトルだが、これらは全てマンガ本なのである。またその外観も凝っていて、フォントや紙の手触りといった細部に至るまで、書籍の装丁に関心のある本好きならば必ず手にとってしまう逸品ばかり。帯書きのキャッチコピーも毎回秀逸だ。

とにかくそうして本屋で見つけたヘンテコなマンガを初めて読んだ私は、またしても衝撃を受けた。そこには、今まで見たことがない世界があった。

鉛筆のような質感でゆるりと描かれた主人公。
かと思えば背景は妙にリアルで、時には物言わぬ路地裏から感じるような妙な迫力すらある。

ジャンルとしては短篇集にあたり、収録作品数は毎回20篇前後とボリューミーだがページ数は作品によってまちまちだ。中には4ページでコンパクトにまとめられているにも関わらず、印象的な作品もある。

一読して、なんだこの作品は……と思った。そうして、この夢のような作品に出会えたことを書物の神に感謝した。

そう、夢だ。
まさに夢なのだ。

それも、空を飛んだりとか、そういうファンシーな夢ではない。
茶の間で母だと思って談笑していたが、目が覚めて思い返してみるとあれは全然知らない人だった、と気づくような。現実がほんの少しだけ歪んでいる、夢。
そうした夢たちが、薄い彩度のタッチで淡々と、時にコミカルに描かれている。
もちろん、作品の中でそれが夢だなどと言われているわけではない。作中では非日常が日常と境目なく混ざり合い、当然のような顔をして在り続けていく。

もう一度思った。
夢のような作品だ、と。

『グヤバノ・ホリデー』は、そんなpanpanya作品の新作だ。とはいっても2019年刊行なので、現時点でという意味において。
緑のカバーにセピアオレンジの帯というコントラストがまた、紙媒体好きをくすぐるデザインになっているのだが、タイトルもそれに負けていない。
『グヤバノ・ホリデー』
グヤバノとはなんだろう、と思ったが、それは背表紙に岩波文庫のごとく記載されているあらすじにてさっそく明かされている。が、ここではあえて書かないでおきたいと思う。

実はこの短篇集は、panpanya作品に珍しく半分が連作の形で構成されている。
その半分を占める連作というのが、”グヤバノ“を追い求めフィリピンに行くという(おそらくは実体験に基づいた)旅行記となっており、これまでの作品にはなかった新たな印象を受けるものだ。
そのため、この記事を読んでpanpanya作品に興味を持った方にはできるだけこのタイトルは1番最後に読んでほしい。
ではなぜこのタイトルを主題に記事を書いているかというと、数あるタイトル名の中でも『グヤバノ・ホリデー』というこのタイトルが1番好きだからだ。
一度聞いたら忘れられないし、口当たりもなんだか愉快。
まあ半分が連作とはいっても実に13篇は単品の短篇集なので、もちろんこちらから読んでもその魅力は十分に伝わるとは思うが。


さて、魅力はこれだけではない。
panpanya作品は短篇集なのでいわゆる扉絵、というものがないのだが、その代わり、というか1話終わるごとに作者の日記のようなものが記されている。その日記がこれまた実に面白いのだ。
日記の内容は多岐に渡る。作品に登場したモチーフに関連する回顧録の時もあれば、作者が生活の中で感じたことが記されていたりもする。数百文字程度でコンパクトにまとめられたそれは、端的でありながらもマンガ作品と同様印象深いものばかりだ。
一般的に短篇マンガは文字数の少ないものが主だが、panpanya作品は短編マンガと思えないほどの情報が記載されている。だがそれを自然と読めてしまうのは、このミニマムに長けた表現力の成せる技なのだな、と感嘆したりする。ちなみに文章コンテンツはこれだけでなく、巻末には解題も掲載されている。あまりにも贅沢だ。


星新一のショートショートや、穂村弘のエッセイが好きなら手にとってもらってまず間違いないと思う。他に類似する作風がないのでマンガでたとえるのは難しいが、あらゐけいいちの世界観が好きな人にもオススメできるかもしれない。


と、ここまで実に2800文字にわたりpanpanya作品について書き記してきたが、ここでひとつ言わなければならないことがある。

panpanyaという作家は実在しない。
装丁の凝った書籍も、キャッチコピーの渋い帯も、作者による読ませる日記も、上で挙げた詩集のようなタイトルも。
そしてもちろん、グヤバノなどという不思議な口当たりの単語も。

すべて架空のものだ。

今朝も坂の街の夢を見たばかりに、こんな夢のようなマンガ本があればいいな、と、つい空想を膨らませてしまった。

こんなに長い記事を読んでくれた上に、この道中でpanpanya作品を読んでみたく少しでも興味を持ってくれた方には本当に申し訳ない。さぞかしがっかりされていることだろう。

だが安心してほしい。

ひとつ、私は嘘つきだ。
ひとつ、インターネットに書かれていることを鵜呑みにしてはいけない。
ひとつ、本当に確かなことはいつだって自分で掴んだ情報だけ。

さて、それではこの記事のどの部分が嘘なのだろうか?


夢か真か、
真か嘘か。


私が"架空だ"と記述している『グヤバノ・ホリデー』のセピアオレンジの帯にはこんなキャッチコピーが書かれている。



"「あるはずだ」と信じたそれは、
ありました。有り難い事です。"


みなさんが素敵な夢を視られることを願って。









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