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節分言語学|「鬼は豆を投げられる」のあいまい性を考える

stand.fmにて音声配信も行いました:

ここのところ、2/3 節分の風習というと、全国的に恵方巻き商戦の方が活発になっているような印象も受けますが、やはり節分といえば「豆まき」も伝統的な文化で、ご家庭や職場などで豆まきをしたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ガリレオの地元では、節分の豆まきといえば「大豆」ではなく「殻付きの落花生」を用いるので、それが当然と思っていたのですが、大学に入って本州の友達にこの話をしたら驚かれました。雪の多い地域では、雪の上に豆が落ちても中身が無事なので、豆まきでは落花生を殻のまま投げる風習が割とあちこちであると聞いたことがあるのですが、読者の中で「豆まき=落花生」だったという方がいたら、良ければコメントで教えてください。

殻付き落花生を使った豆まきを改めて振り返ってみると、歳の数だけ食べるというときに、大体の落花生は1つの殻に2粒入っているので、幼い頃に実家で豆まきをしていた頃から、「歳の数だけ」のカウント基準は、殻単位なのか中身単位なのか?というのは気になるところでした。特に年齢が小さい時は、できるだけたくさん食べたかったので…

今、言語学を専門とするようになって、これはある意味では pluralia tantumと呼ばれる、(a pair of) glasses, scissors, pants, etc.といった表現の捉え方とも関わってくるなぁ、と考えるところでもあります。(これについては、今回の記事のメインの内容から離れるので、また別の機会に取り上げられればと思います。)

鬼は豆を投げられる

さて、本題に入りましょう。

昨日、豆まきで「鬼役」になった人は「豆を投げられた」ことになるでしょうが、その受け身の意味は「鬼は豆を投げられる」という文が表しうる複数の解釈可能性のうちの1つであり、この文は以下のようにあいまい性を持っています:

受け身

節分の文脈で最も自然に頭に浮かぶ解釈はこれでしょう。人間が厄払いのために鬼に向かって豆を投げる行為を、鬼側の視点で表現すると「鬼は豆を投げられる」ことになります。

可能

しかし、豆を恐れない鬼がいたとして、「フハハハ、人間どもが俺様に向かって豆を投げてくるだと?生意気な!逆に投げ返してくれるわ!!」…となった場合、その鬼は「豆を投げられる(=投げることができる)」ことになるでしょう。野球の投手について述べる時と同じ感じで、「この鬼は 160km/hの豆を投げられる」といった言い方にすると、よりわかりやすいかもしれません。

尊敬

もし鬼を崇めている人がいれば、「鬼は豆を投げられる」という文は、鬼が豆を投げる行為に対して尊敬の意味で解釈することも可能です。「鬼様が豆を投げられた(=お投げになった)」ということですね。実際にこの意味で用いることがどれだけあるか、ということは傍に置いて、あくまでも文法的な解釈可能性だけを考えれば、この使い方も十分にあり得るものと言えます。

あいまい性は言語学者の大好物

とまぁこのように、言語学者は往々にして「あいまいな表現」を好む生き物です。もし道に捨てられていた言語学者を拾ったら、一日一回あいまいな文を与えてあげれば、すぐに懐いてくれるでしょう笑

もう少し考察を深めてみよう

「鬼は豆を投げられ『た』」にすると…?

上では、「鬼は豆を投げられ『る』」という文の解釈のあいまい性をみてきましたが、時制(厳密に言えば、日本語の「〜た」は時制も相(完了)も表しうるので分析が難しいのですが)を「投げられ『た』」に変えると、可能での解釈可能性は低くなると考えられます。

もちろん文脈を整えれば、「この鬼は、現役時代(!?)には 160km/hの豆を投げられた」などと言うことはできますが、単に「鬼は豆を投げられた」だけですと、受け身か尊敬での解釈の方がより自然に感じられるでしょう。

これは、「可能」というのが発話時点で能力を潜在的﹅﹅﹅に有していることと関わっており、過去の話にするためには、「しかし今はできない」というような現在との比較に焦点が当てられる必要性が生じるからです。

よって、単なる「豆を投げられた」を過去の時点での「可能」の意味で捉えようとするには、「豆を投げる」という行為自体が、何らかの事情(腕や肩の故障など)で今はできなくなっていることが文脈上明らかでなければなりません。逆にだからこそ、「現役時代には」や「160km/hの」といった、現在と対比できる特定の情報が加われば、可能の意味での解釈が得やすくなるわけです。

「ら抜き言葉」は日本語の“乱れ”か?

いわゆる「豆を投げれる」のような「ら抜き言葉」というのは、日本語の“乱れ”として槍玉にあげられることの多い言語現象ですが、実際には合理的な側面もあります。

上で見た通り、「鬼は豆を投げられる」は、受け身・可能・尊敬の解釈であいまい性が生じますが、「鬼は豆を投げれる」は可能の意味しか持ち得ません。

規範文法 (prescriptive grammar)の立場では、「ら抜き言葉」は日本語文法の規範に反する“乱れ”となってしまうのでしょうが、記述文法 (descriptive grammar)かつ【言語現象には必ず理由がある】という視点で「ら抜き言葉」を考えると、ら抜きにすることによって、解釈を「可能」の意味に制限して、あいまい性を解消することができる…という、合理的な理由がはたらいているのです。だからこそ、“乱れ”の誹りを受けながらも、廃れることなく、むしろ最近では受け入れられることも多くなってきているのでしょう。

「ら抜き言葉はけしからん!」と、自分の言語感覚に合わない表現を“乱れ”と断じる心には、実は鬼が潜んでいるかもしれません。なぜそのような表現が使われるのだろう?と興味を持ち、仕組みを知ろうとすることで、より豊かな言語使用の可能性という福が舞い込んでくることでしょう。

…などと、上手いこと言って締められた感じになったので、今回の記事はここで筆を置くことにします。

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