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【マジで?】目標物を目にするとスイッチが「カチッ」と入る気がする

まず始めに明確な目標を目の当たりにすることで、そのイメージが強烈にインプットされ、自走する、という話

昨日の午後、まだまだ終わりの見えない引っ越しの荷解きから解放されるように、長男の通う私立中学の文化祭に家族で出かけた。

現実逃避のために出かけたわけではなく、下の双子が再来年受ける中学受験に際し、私立中学の雰囲気を味わわせるために、学校見学もかねてお邪魔したのである。

思春期の長男からは家族で顔を出すことをソフトにNGを出されたが、学校内で会っても知らんぷりをするという条件付きで許可をもらった。

去年まではコロナの影響で中止としていた行事であるが、今年からかなり内容を制限しての開催に踏み切ったのだ。飲食系は禁止ということでかなり穏やかで質素な文化祭であったが、校内の様子や私立の雰囲気を感じるには充分かと思い、家族で敷地内を見て回った。

私と妻に関してはこれまでに何度か訪問していたこともあり、特別目新しいこともなかったのだが、双子に関しては、終始興奮気味で、わかりやすいくらいに目をキラキラと輝かせていたのである。

ドライな長男に比べ、単細胞、いや純粋な双子にとっては私立の環境を肌で感じることができたことが大きかったようだ。

今まで長男にならい、明確な目標もなく惰性で通わされていた進学塾に通う意味をこうして目の当たりにしている。そこに感情が動かされないのならそれも個人の感情だが、少なからず「ここに行ってみたい」というという感情が震えたのなら、今回の目論見通りといえよう。

大人に関してもそうなのだが、様々経験により、自身で作り上げた世界観や、旅行や他人の生活を覗いたことで受けるカルチャーショックなどから、自分のこの先の目標地がハッキリする、ということがある。

脳裏に焼き付いた目標地が当面の頂上であり、その頂上の景色がイメージできなければ、なぜ日々努力を強いられるのだろうか?という悶々とした問いしか残らないと思うのだ。

では、どうやってその目標地を定めるか?ということだが、こればかりは感受性や感性に個人差があることから一概に言えないが、それを求める気持ちが強いのなら、自分が興味のあることないことをとにかく経験して探しに行くほかないだろう。

間違いなく自分の半径数メートル以内では見つからなかったから求めるのだ。であるならば、行動範囲をもっと広げて見識も広げる必要がある。無関心や面倒、億劫などのネガティブな感情が勝るようであれば、それは自身が変化を求めていないという寂しい事実か臆病な気持ちかのどちらかだ。

いずれにせよ、小さなことでも目標地が見つかるということは生きがいを覚えるといっても過言ではない。

そんな小さな目標地を見つけたっぽい双子の息子たちだが、一言いいたいのは今日見た学校に行くわけではないんだよ、ということ。単細胞、いや純粋な二人のことだ、これから学校見学に行くようになればもっと明確な自分だけの目標地を見つけてくれるだろう。

行けるかどうかはまた別の問題になるのだが。

見たもの、触れたものがその人の経験になり、その後の道しるべとなる


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