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誰を見ているかで自身の成長率を定める

付き合う人間関係、自身が身を置いている場所、すなわち誰を見ているかで自身のものさしが決まる、という話

決算報告の日程を調整の為、顧問税理士から連絡が入った。先日noteでも書いたが、前期の結果は振るわなかった。それでもいくつか契約や長期返済が終わったのを考慮して、その分で今期の役員報酬を少し上げる予定でいる。

今の実績に対して、いくらの報酬が適当かということも考えたが、正直に言えば、増えるならいくらでも増やしたいという気持ちがホンネである。

では、いくら年収があれば満足か、ということを時々考えるが、今の生活には不満もないし、元々物欲もあまりないので、今の年収が倍以上に増えたからといって持て余す自信しかないのだが、それでもないよりはあった方がいいと思う。

以前、妻と休日なんとなく雑誌を眺めながら話をしていたのだが、収入が爆上がりしてお金の心配を一切しなくてよくなったら、どのレベルの生活をしたいか?というなんとも妄想よりな質問をしたところ、妻の答えた生活は特に質素でもなく、かといって贅沢極まりないセレブな生活というものでもなかった。

お金の心配をしなくていいのはありがたいが、とはいえブランド物で身を固め、高級スーパーでしか買い物をせず、誰もがうらやむような生活は性に合わないそうだ。

価値観の話になるが、人によって快適な生活スタイルというものがあり、その理想に近いものであれば人生は満足にいくものになるだろう。その生活を実現できるだけの収入が答えであり、それ以上の収入は邪魔にはならないが、余分であるということになるだろう。

しかしながら、私はおそらく妻の理想を超えるほどの年収を目指している。私も妻の意見にはアグリーだが、私にとっての年収は、実現したい生活とは別の意味を持つものだからだ。

幸か不幸か私のまわりには高所得者が多数いる。その方々の生活はセレブそのものの人もいるが、一見してお金持ちには見えない人もいる。だがしかし、当たり前の話だが、その高所得な方々は皆、仕事や事業、不労所得などで成果をあげている。

私はその方々の収入や生活というよりは、成果を追っかけているのだ。やっていることが違うのだから比べること自体ナンセンスかもしれないが、それでも実際に成果を上げている方々を見てしまうと、それ自体がインプットされ、その世界観が幻想や夢のような感覚ではなく、自分の延長線上にも可能性があるのではないか?と思えてきてしまうのだ。

ひと昔前、所属していたグループでの酒の席で「金持ちはみんな悪いことをしている。そうでなきゃ腑に落ちない」という発言を耳にしたことがある。酒の席での冗談であったかもしれないが、そこにいた多数の人間はその意見に大いに同調し、お金持ちの背景すら想像していない様子であったのを憶えている。

それから数年、何人もの高所得者と知り合い、その方々の苦労や努力、高い意識などに触れるうちに、その成果には絶対的な裏付けがあると確信したのだ。

私はそういった経緯や意識の矛先に感化されたこともあり、自身の収入が上がるたびに、一般的に見てどうかということよりも、あの人たちと比べてどうかという点が指標になっている。

まだまだその方々の足元にも及ばないが、自分なりの歩みで少しでも近づきたいと思っている。今期の役員報酬のプラスも微々たるものだが、意識だけは高いつもりでいる。その意識が会社の業績や年収に転化できる日はまだまだ遠いが、伸びしろと捉えてやまない、青臭い中年経営者な私なのである。

どこの世界観に標準を合わせるかで、日々の行動は変化する


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