見出し画像

【学び】影響力に引っ張られないよう、自分の軸足で少しだけ踏ん張る

学びや情報を仕入れる際に、発信者のことばを鵜呑みにせず、自分のアタマで都合よく解釈することの大事、という話

建設業界に精通しているとある著名な方の話を聞く機会があった。

その話は含蓄に富んでおり、分析力や先見の明も申し分ない内容であったが、わたしは自分の性格が曲がっている自覚からその話のすべてを鵜呑みにせず聞いていたように思う。



普段、人の話を聞いたり、本を読んだりと情報を仕入れる場面で自然と半身ほど俯瞰した目線になるモードが発動する。それは情報を信頼していないのではなく、情報を咀嚼する余白を残すために発動させているのだ。

特にその情報源が冒頭のように影響力のある方からであったり、有名な著者であったりすればなおのことバイアスがかかり、「この人が発しているのだから」というマジックにより情報を丸々信じてしまう弱さを自覚しているからなのかもしれない。



とはいえ、今でも本の帯に有名人の紹介文が書かれていることで即買いしてしまうことも多々あるし、油断している際なんかは一旦情報を丸飲みしてしまうことも日々あるのが現状である。

そうした場面は、わたしにとってあまり重要ではない場合が多いので情報を誤飲したところで何ら影響はないが、率先して情報を求めている際は気を付ける必要があると思うのだ。



前のめりになるあまり我を忘れて、発信源からの情報をそのまま妄信し、その情報が熱を帯びていれば気分は高揚し人生を変える素晴らしい価値を手に入れた、とフェイクの悦に入ってしまう。

それは単に都合よく思考停止になり、自分自身で考えることを放棄したにすぎない。情報の真意も精査せず鵜呑みにして発信源に傾倒していく様子は信用ではなく盲目的なファン心理に近い。



その世界観に浸ることが幸せというのなら好きにすればいいが、基本的に情報を得る場合のスタンスとして、自分の軸足は踏ん張ることが前提であると思うのだ。

半分仕入れて、半分は自分で考える。

本当に価値ある情報は、発信源に取り込もうとはしない。与えた情報はあくまでも考えるための材料として捉えているゆえ、仕入れたあと考えてしまうような余韻が残る。

だが、そうではない情報においては余韻どころかひとつのよくできた物語のように世界観が完結し、その情報に共感してしまうと物語に組み込まれてしまうシステムのようだ。



そんな想いに至ったのもあまりに完成された話を聞いてわたしの天邪鬼センサーが働いたからかもしれない。なぜセンサーが反応したかを考えたく、記事にした次第。

常に「考える」ことを放棄しない


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?