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代価をいただくという行為を教育する

仕事をして価値を提供したのちに代価をいただく、社会に出れば当たり前の営みを実践で子供に伝える、という話

夏季休暇の最終日、私の3日間という短い休みのなか、すでに半月程度の休みを消化し、完全にだらけモードに入っている愚息たち。

ゲーム、動画、そしてまたゲームというイライラするルーティンを飽きずに繰り返す子供たちなのだが、どこへもつれて行けない負い目もあり黙認していた。私よりも長くそのルーティンに付き合わされている妻はイライラを通り越して、もはや能面のような感情を持たない表情になっている。

そこで愚息たちの要求である。「お金が欲しい!」

熱中しているゲーム内の課金に必要な軍資金が欲しいというのだ。課金システムの内情を理解しているだけに「ハイどーぞ」とはならない。自分のお金で失敗をしながら学ぶという意味では若いうちにどんどん経験すればいい、とは思っているが、親からせびったすえ、何の生産性もない(親の目からすればである)ゲームの課金に投下し、自分は何の痛みも伴わないなど言語道断である。

そこで、こちらの提案として親がお金を払いたくなる状況を自分で考えて実践してください、というもの。何をするかは自分次第、代価の金額もこちらで決めるというルールである。

三者三様で思い思いのことを始める。ひとりは掃除機で掃除を始め、ひとりは「○○をやってあげるから1000円ちょうだい」と要求し、最後のひとりはなぜか終わっていない夏休みの宿題を始めたのだ。

掃除に関しては理解できるし、おそらくその掃除の質によっては代価は支払われるだろう。2番目の場合は自分の要求であり、しかも○○とは自分のしたい事であり、こちらの求めるものではない。最後の宿題に関しては意味不明であり、なぜそれにお金が支払われると考えたか理解に苦しむ・・・。

どれも私のDNAが色濃く引き継がれていることが悲しい現実であるが、相手のことを考え、何を欲しているか、そして自分で何ができるがを考えることができれば代価は支払われると思うのだ。

そして改めて感じたのが、支払う側をどういう気持ちにさせるかでその代価の金額も変わってくるということ。

重要なのは価値提供を考えるベクトルがどこを向いているか。掃除の彼以外のベクトルは完全に自分に向いている。しかも宿題に関しては自分の落ち度を回収しているだけで価値などまったく生まれていないのだ。だが、すごい勉強してますアピールを醸し出しているが、それをやって価値を感じるのは自分だけである。

そうして三者三様の1日が終わり、代価が支払われたのは掃除の息子だけであるが、そこで他の2人がブチギレたり、涙ぐむのはお門違いである。どうしてこういう結果になったかを説明したが、納得がいかない様子。

本番の社会に出てからはさすがにそこまでズレた仕事はしないだろうが、やはり代価をいただくという行為は相手に対してどれだけ思いを馳せるかが全てだと感じた次第。

愚息たちが腹落ちするのはいつの日になるか、それぞれの価値を見つけ欲しいと願うばかり。

なぜお金が支払われるのか、という商売や仕事の基本を理解すると価値を上げる工夫が生まれる

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