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アクティブ・ラーナーは教養主義をアップデートできるか

※「学友」226号(2020年2月発行)に掲載された、世田谷学園の教員による一回読み切り型連載対談です。Web向けに、一部修正してあります。

プレゼンと〈意識高い系〉

鵜川 今年も盛り上がりましたね、弁論大会(2019年11月に世田谷学園学内において本選開催)。中でも、僕自身がここ数年気になっているのは、いわゆるプレゼンの文体・口調で発表する生徒が増え続けていることです。弁論ということで一般的に想定されるような演説っぽい文体でも、演技がかった口調でもなく、あるいは――うちの学校の場合は、これが一番多かった気がしますが――ことさらに言葉を飾り立てず、とにかく真摯に訴えかける、という形でもない。これって、生徒たちにとって、聴衆を前に語るという行為のモデルとして、プレゼンが機能しているということだと思うんですよ。具体的には、Appleの新製品発表会(におけるスティーヴ・ジョブズ)とか、TEDのスピーチ(2018年までEテレの「スーパープレゼンテーション」でも放送されていました)あたりが、その源流になるのかな。

細井 そのあたり、ロールモデルとしての影響は大きいですよね。特にスティーヴ・ジョブズの場合は亡くなって10年近くが経っていますが、ITやヴェンチャーといった枠にとどまらず、経営理念や生き方も含めて未だに影響力を持っている。その一つの象徴があのプレゼンテーションなんでしょうね。今の生徒はそういうプレゼン文体みたいなものをナチュラルに見てきているからか、話し方が上手いなと感じます。前に鵜川さんと話したかもしれませんが、動画サイトの普及でスポーツや音楽における身体的なイメージが掴みやすくなったというのもあるのかもしれませんね。

鵜川 そうですね。学びに対して動画が与えたインパクトは本当に大きい。インプットのソースが多様化したことの影響は、身体動作や技術に関わるところで最大化されていると感じます。例えば、楽器の演奏やダンスなんかでは、それを顕著に感じますし、そういった現象がプレゼンテーションにまで及んでいるというのは、とても興味深いですね。そこから翻って、学びに対する意欲も変化してきていると思います。

細井 確かに、大学生や高校生の間で、スキルや資格に対する意識がこの10年くらいですごく高まっていると感じます(いったん白紙になってしまいましたけど、大学入試の英語民間試験の導入なんかもそういう危機感を煽っている部分がありますよね)。社会の側が若い世代に対して場所を作ることによって、高校生で起業するような事例も増えてきている中で、いわゆる「意識高い系」というのが社会人や大学生だけでなく、高校生くらいにも下りてきている気がします。

鵜川 「意識高い系」! 今回、キーワードになってくる言葉かと思いますが、そもそも、あまりいい意味では使われないですよね。初めて耳にしたのが2000年代の後半ぐらいかなあ。それこそ、「目標は高いけど空回りしている」「言うことだけは一人前だけど結果が伴っていない」といった、若い世代の一部の人たちに向けたネガティヴ・ワードという印象が強いです。

細井 一般的にはそういうイメージで語られがちですよね。あとは自己顕示欲や承認欲求の強さをアピールするというのも特徴に挙げられる気がします。自分が参加したセミナーのことやそこで知り合った人たちとの繋がりをSNSにアップするというような(笑)。スターバックスでMacBookを広げて……といった彼らのライフスタイルもステレオタイプなものとして揶揄されがちですね。ただ、僕が今言ったのは必ずしもそういうニュアンスだけではなくて、社会に対して早いうちから目を向けようとしている姿勢を持っている学生や生徒も増えた、といった意味合いで使いました。

鵜川 確かにその通りですね。そもそも学生や生徒の場合、社会人と比較すると成果をシビアに求められる機会というのは少ないです。だからこそ、積極的に大人の世界と「意識高く」関わってヴィジョンを描くというのは意味があることだと思います。

細井 勘違いも時にはあるかもしれないですが、それも含めて経験ですからね。まずはそこに参加していこうという意欲が大事だと思います。

鵜川 先日、「クエストエデュケーション」の学内発表会を見ました。これは何かというと、企業の提示したミッションに数か月にわたって取り組み、その成果として商品やサービスの提案を行うという活動です。プレゼンをしていた高校生たちの姿は、社会の問題を前向きに解決したいという思いに溢れていて、胸が熱くなりました。大人が用意した社会に、若者がお邪魔していく、みたいな関係はもはや昔のもの。若者である生徒たち自身の考えや取り組みが現実の社会を変えることにつながるというのは、さっき言ったようなニュアンスでなく、いい意味での「意識高い」状態に結びついていくのではないか、と期待を寄せています。 

※ クエストカップ2020全国大会の「コーポレートアクセス」部門(メニコン)において、世田谷学園から参加したチーム「セタコン」が、「五感でみる」で優秀賞を獲得しました。

細井 そうですね。もともとはスティーヴ・ジョブズも個人用のコンピュータを普及させたいというヴィジョンを持って起業したわけですよね。そういう意味で何かを新しく始める人は、お金を稼ぎたいとか有名になりたいという動機ももちろんあるとは思いますが、自分の考える理想を実現させたいとか社会を変えたいという気持ちの方が大きいんじゃないかと思います。
 昔ならホリエモン(堀江貴文)とか最近だったら前澤友作がお金儲けに走っているみたいな批判があるわけですけど、僕自身の考えでは、ある時期までは彼らも成功することやお金を稼ぐことが第一だったかもしれないと思うんですが、あるポイントを超えてからはそれは二次的な目的になっているんじゃないかと思うんですよね。

鵜川 そういう面はあると思います。スポーツ選手などでもそうですが、社会的に影響力がある人が新しいことにチャレンジするのには大きな意味があると思うんですよ。ただ彼らの場合、宇宙に行くとかそこに恋人を連れていくかみたいなところが取りざたされがちですが(笑)。

細井 確かに(笑)。けど、マスコミの責任というのもあると思うんですよね。ホリエモンや前澤友作の理念って、あんまり積極的に紹介されないじゃないですか。それよりも彼らの言動の一部を取り上げて面白おかしく扱うという。マスコミ的には「一生懸命働いている(私たち)庶民」と「胡散臭いことをやって儲けている金の亡者」みたいに対比的に扱いたがる。でも、あるときふと思ったことがあるんですが、幕末の志士、特に坂本龍馬が代表的だと思いますが、結果的に大政奉還に貢献したから評価されているけど、同時代的にはかなーり怪しかったと思うんですよね(笑)。権威的な人間からしたら「こんな奴に頭を下げなきゃいけないのか」みたいな。

鵜川 それはありますね。僕は好きですけど、土方歳三なんかは間違いなく胡散臭かったでしょうし(笑)。

細井 それまでにないことをやろうとする人って、常識に反しているから、どうしてもそう見られがちになる。 

社会との関わりと〈切実さ〉

鵜川 社会を変えるという話の延長で、もう一点だけ「クエストエデュケーション」の学内発表会で感じたことがあって。ちょっと批判めいた物言いに聞こえるかもしれないので、言葉にしづらいところなんですが……。生徒たちの提案に、問題状況に対する〈切実さ〉が足りないように感じたんですよね。その商品やサービスが実現した時、困っていると想定されていた人たちは本当に救われるのかな、と。
 過去の弁論大会を振り返った時、忘れられない弁論というのがいくつかあって、例えば昨年度の「性的マイノリティに関する弁論」や、二年前の「障碍を持った家族についての弁論」なんかは、提示された問題状況や困っている人の存在が、発表者にとって決して放置できない〈切実〉なものだったと思うんですよ。
 誤解してほしくないのですが、「クエストエデュケーション」の参加生徒が不誠実だと言っているわけじゃないんです。むしろ逆です。彼らは目の前に問題があることが分かっている。それを解決したいという情熱もある。その上で、彼らに足りていないのは、社会的な経験や生きた知識だと思うんです。で、仮にそこに不足があるとするなら、それは彼らの問題じゃなくて、教育の問題だと思うんですよ。異文化交流や異文化理解を教育活動に織り込みながら、「意識の高い」はずの彼らに文化的なマイノリティに対する想像力が育っていないのだとすれば、それは教育をする僕たちの側の問題なのではないか、と。

細井 何かのサーヴィスやシステムのデザインにおいて、それが〈切実さ〉によっているかどうかはとても大切なことですよね。細かいインターフェイスの部分は修正することができても、核となる要素がしっかりしていないと意味がないですから。
 教育の話ということだと、「異文化理解」「他者理解」というのがお題目になっているということを今も昔も感じます。「わかり合える」ことが前提になってしまっていて、そうすると結論は精神論的なところに落ち着くという。あとはそういった大文字の「他者理解」というのが身近な水準のそれと結びついていない感じがします。だからこそ鵜川さんが挙げていた生徒の弁論は説得力を持って感じられたんだと思うんですが。

鵜川 そういうことで言うと、教育に対する〈切実〉な問題意識そのものが、企業や大学が中高生と直接結びつく機会につながっているのかもしれませんね。例えば、さっきも話に出た堀江貴文氏は2017年に『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』(光文社新書)という本を出していますし(すみません、未読です)、最近で言えば、投資家の村上世彰氏がN高等学校で実施するという金融教育も話題になりました(高校生に20万円を給付して、実際に投資させる、っていうあれです)。

 そもそも、今進んでいる「高大接続改革」自体、「グローバル化の進展や人工知能技術をはじめとする技術革新などに伴い、社会構造も急速に、かつ大きく変革しており、予見の困難な時代の中で新たな価値を創造していく力を育てること」の必要性から発しているわけで、みんな持っている問題意識は共通しているのだと思います。

細井 なるほど。「学友ANNEX」の前説でも話しましたけど、現在は実社会と学校の距離が縮まっている。

 その中で既存の学校教育とは異なったアプローチが大人の側から投げかけられています。そこに対して興味・関心を持つ生徒というのが一時期から増えましたよね。それは社会に出て役立つからという実学的な関心ももちろんあると思いますが、大人の社会に参入したいという背伸びする気持ちの表れなのかなと思うところもあります。その意味ではキッザニアと構造は近いのかもしれない(笑)。

鵜川 キッザニアについては、キッゾという通貨でお給料が支払われるのがいいですね。お給料って、社会からの承認、評価という側面があるので、もらった子どもは、自分の労働に価値を認められた感覚になると思うんです。
 それで言えば、仕事や労働には、必ず利他的な部分が存在します。『入試現代文のstyle』(高校2・3年向けの世田谷学園オリジナルの教科書)に収録してある内山節「現代的労働の動揺について」(『自由論—自然と人間のゆらぎの中で』(岩波人文書セレクション)所収)には、労働の価値は「人間的な向上と社会的な貢献」にあるのであって、単純な肉体労働から解放されて知的労働に従事する人が増えても、労働が人間的なものになるわけではない、というようなことが書かれています。
 ここが、今まさに学校が立たされている岐路だと思うんです。例えば、「こんなこと勉強して何の役に立つんですか」なんて言葉が、長らく思春期の中高生の常套句だった。そして、それに対する色々な解答が模索されてきた。でも今は、知識の使い方=「役に立て方」を身につけることこそが重要だという方向に向かっている。そして、それが「何の役に立つのか」というと、学習者自身の「向上」だけとは限らないんですよね。学んだことを、社会や研究に役立てる。それを教えるのが学校だという方向へ変わってきている。

細井 世田谷学園は中高一貫校なので、最終的な出口は(大学受験を中心に)個人としての自己実現というところにフォーカスされていくことが多いです。ただもっと先を見据えるならば、いかに個人が社会の中で役割を果たしていくかという視点は絶対に必要なんですよね。
 10年くらい前に『これからの「正義」の話をしよう』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)がベストセラーになった政治哲学者のマイケル・サンデルは、「コミュニタリアニズム」というキーワードで語られることが多い人です。個人が属している共同体の利益を優先すべきだというのがざっくりした彼の主張なんですが、この考え方はリバタリアニズムに対する批判として出てきたという文脈があるんですよね。

鵜川 リバタリアニズムというのは、他者の自由を侵害しない限り、各人のあらゆる経済的・社会的自由は尊重されるべきだという思想ですね。自由至上主義と訳されたりします。

細井 ちょっと誤解があるかもしれないんですが、「俺のものは俺のもの」的発想というのがわかりやすいかもしれません。例えば僕たちがお金を稼ぐと、税金としてある程度持っていかれて、それが社会保障や公共事業にまわされる。

鵜川 いわゆる富の再分配ってやつですね。それによって貧困層への手当てがされ、社会の公平性が保たれるというのが従来のリベラリズム、社会民主主義的な立場の主張です。

細井 でもリバタリアニズムはそれを否定する。国家や政府の介入は最小限にすべきだというのが彼らの主張です。

鵜川 1980年代にアメリカやイギリスで新自由主義経済が導入されて、規制緩和や社会保障費の削減、公共事業の民営化などの施策が取られました。日本でも橋本内閣や小泉内閣がそれを押し進めましたよね。その結果としてそれまでの「一億総中流」と言われるような社会像が崩壊した。

細井 一方でIT長者みたいな人も出てきて、格差の問題が言われるようになったのもこの頃です。

鵜川 当時、「自己責任」とか「勝ち組/負け組」という言葉が一種の流行語みたいになってましたね。

細井 いわゆる「勝ち組」の人々がリバタリアニズムを支持したのもわかります。自分たちからすれば、競争で正当につかみ取ったものの一部を、なぜ政府に持っていかれなければならないのかとなる。サンデルは一部の金持ちが“個人の自由”と称してやりたい放題にやってしまう状況の危険性を感じていたからこそ、コミュニタリアニズムを提唱したんだと思うんですね。

鵜川 単なる保守的な論者というわけではないんですよね。

細井 そうです。鵜川さんのさっきの話を聞いて、学校教育で自分の得た知識や経験を自分の属している(属していた)コミュニティに還元していくということの意義というのも感じられたように思いました。 

知識と経験の持つ意味

鵜川 知識や経験そのものが価値だとみなされていた時は、より多くの知識・経験を保有していることがその人の価値になりました。ところが、今はそうではない。知識や経験は、積極的に他者と共有することの方が意味があるし、そういう行為に価値があるとみなされています。(もちろん、知的財産権の話とは全く別です。)
 でも、ことはそう単純じゃない。他人と繋がったり協働したりすることが苦手な人がいる、という話ではありません(そういう人には、スーザン・ケイン『内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える』(講談社+α文庫)をぜひ読んでほしいです!)。そうじゃなくて、幅広く知識や経験を得ようとする態度や、それを用いて向上と貢献を目指す姿勢――要するに「意識高い系」に当たる行為全般に対して、冷笑的・批判的な態度を取る人が結構いるんですよね。これ、生徒だけに限った話じゃなくて、大人でもそうだったりします。

細井 そういう人たちは、いわゆる「意識高い系」の行動に対して、さっき僕が言った自己顕示欲や承認欲求といったある種の先入観を持ってしまっているんじゃないですかね。だから一人ひとりの言動を個別に捉えることなく、「意識高いオレってカッコいい」「自分は意識の低い連中とは違う」と思っている人々、とひと括りにしてレッテルを貼ってしまうんじゃないかと。

鵜川 それって、なかなか難しい問題ですよね。実際に、「自己顕示欲や承認欲求」だけしかないっていう人も少なからずいるという現実が何とも。ただ、だからと言って、自分自身の意識を低い状態に保つっていうのも何か違う。これって、結局のところ、一人ひとりが自分だけのロールモデルをどう構築するか、っていう問題にたどり着くのかな、という気がしてきました。
 さっき話に出た格差社会が言われる前、「一億総中流」という意識がギリギリ残っていた90年代までは、国民全体に共通のロールモデルが存在したと思うんですよ。立身出世イデオロギーの延長にあるような、「一生懸命勉強していい大学入っていい会社に入って一生懸命働いて出世して定年まで勤めあげる」みたいな、単線的で分かりやすいロールモデルです。ところが、今は「いい会社」も倒産するしリストラもある。学歴難民なんて状況も一般化してしまっている。「高学歴ワーキングプア」や「貧困ポスドク」という言葉を初めて聞いた時は、本当に衝撃を受けました。
 実際に、国立青少年教育振興機構が2017年に発表した「高校生の勉強と生活に関する意識調査報告書」では、「日本の高校生は、将来の目標について、『高い社会的地位に就くこと』『リーダーになること』『有名な大学に入ること』への願望が他の3か国(アメリカ・中国・韓国)に比べて低い。」という報告がなされています。

細井 2016年のアメリカ大統領選で、ヒラリー・クリントン有利の下馬評を覆してドナルド・トランプが当選したわけですが、それは「隠れトランプ」と言われる支持層が予想以上に多かったからです。彼らの多くは白人の労働者階級で、学歴も高卒以下であると分析されています。それまでアメリカの白人層が既得権益的に享受してきたものがグローバリゼーションの進展などで奪われてしまい、そのことで彼らの生活が貧しくなっていることに対する反発がトランプを大統領にしたという感じですね。
 鵜川さんが挙げてくれた高校生の意識調査報告書の結果も根は同じなのではないかと僕は思いました。日本はアジア諸国と比べて経済面を中心に相対的に地盤沈下が進んでいる。そうすると自分たちの生活だけでも何とかして守りたいという思いが生まれてきて、結果としてリーダーシップを取って社会をリードしていくんだという意欲は二の次になっていくんじゃないかと思います。これは若い世代の問題というよりは、大人世代がそういう意識なのでそれが反映されていると考えた方がいいと思うんですが(今の40代半ばは「就職氷河期」「ロスト・ジェネレーション」と言われた世代です)。

鵜川 壊れたロールモデルを抱えて迷走する大人世代の姿は、書店に並ぶ本を見ていてもよくわかります。いわゆる「教養本」の類が本当に増えました。もちろん、中にはいい本もたくさんあります(最近読んだものだと、山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)は、大人だけじゃなく、中高生にも薦められる良書でした)。

 その一方で、情報を羅列してイラストでごまかしただけの本や、分かりやすくするために本質を極限まで薄めてしまっている本もある。それでも、そういう本も含めて売れてるんですよね。要するに、壊れたロールモデルでも、それしかなければ使うしかない――知識を覚えて活路を見出そうとするしかない、ということです。
 だからこそ、特に若い世代は新しいロールモデルを構築しなくてはならない。ロールモデルというのは、突き詰めて言うと「価値判断と行動パターンのパッケージ」だと思うんです。であれば、実際に判断と行動を繰り返している人物をモデルにするのが手っ取り早い。憧れの人を見つけて真似しよう、ということです。

細井 確かに、教養本は凄い量が出版されてますね。もう本当に玉石混淆という感じなんですけど、「教養」と銘打ちつつもその目的は実利的というか「外国の企業のトップはこれを身につけている」みたいな触れ込みで、ビジネスで役立つ方向に振れているんですよね。で、ユーザーもそれを買ったり読んだりすることで安心しているという。僕はそういう瞬間に「ああ、世の中って結局経済というかお金で回ってるんだな」と感じるんですよね(笑)。本を買ったり読んだりする動機というのが、ビジネスで役立つ=お金に結びつくという回路になっている。だから本屋にあれだけのビジネス書が並んでいるんでしょうけど。
 とはいえ、僕は必ずしも教養本を否定するつもりはなくて、それが現代アートなりワインなりに関する入り口としての役目を果たすこともあると思うんです。ただ、即効性や実効性だけを求めるとたぶん身につかない。
 僕は普段から「基本的にムダな知識や経験はない」と言っています。定期試験や受験勉強が一番分かりやすいところだと思いますが、あるゴールを決めて役立ったか否かを判断するから「ムダかそうでないか」がクローズアップされるわけですよね。でももっと長いスパンで考えれば、雑学的な知識や経験したメソッドが役立つ瞬間というのはけっこうあると思うんです。そういう意味で言うと、真の意味での「意識高い系」というのは自分の目の前にあるさまざまな情報についてフラットな気持ちで向き合えるという人間なのかもしれませんね。 

アクティブな教養主義

鵜川 僕は先程、知識の活用においては「向上と貢献」が重要だという話をしましたが、その基盤にある知識そのものとの向き合い方については、むしろ「フラット」であることが重要だという指摘ですね。これは、アウトプットとインプットの質的相違に基づいているのかもしれない。
 僕は文芸部の顧問をしていて、その関係で美術館にやたらと生徒を連れていくんですが、高校2年の前部長のことを思い出しました。彼はインプットに対してすごく貪欲で、どんなものでもまずは受容してみるというメンタリティの持ち主です。ところが、その彼が「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれたことに対しては、とにかく怒っていたんですよね。この彼の反応に僕自身感激すると同時に、どうして彼は怒れたんだろうという疑問を抱きました。今では、彼が多様なアート表現をインプットしてきた一方で、表現欲求に従ってアウトプットを繰り返してきたことが、このような「価値判断と行動」を誘発したのかな、と感じています。その背後には、インプットとアウトプットの非対称性がある。
 細井さんが挙げていた「即効性や実効性」、あるいは「定期試験や受験勉強」の多くの問題は、インプットをそのままアウトプットすることが前提になっています。でも、違うんですよね。インプットした知識が教養として身についた時、アウトプットされるのは知識そのものではありません。もしも、ある人のアウトプットが単なる知識の羅列なんだとしたら、それは教養でも何でもない。

細井 アウトプットの仕方=「価値判断と行動」は、知識の消化の仕方と深く関わっているように思います。情報はインプットされる段階で、自分の中にそれまであった情報との関係でマッピングされますよね。そういう経験を重ねて「この書き手の意見は自分に近い」とか、「歴史的に見るとこの人はこういう立ち位置なんだ」みたいなことがわかってくる。
 僕は数年前からセンター試験の倫理を勉強してみようと思って(生徒も何科目も解いてるんだから、自分も国語以外の科目も解いてみようと思ったのが発端です。でも英語はハードルが高そうなのでやめました:笑)、哲学の入門書を読んでみたんですが、昔に比べていろいろなことが腑に落ちるというか、「ああ、この流れの中で捉えられるわけね」みたいな感じでわりとスムースに情報を消化することができました。
 本来、情報というのは価値判断や評価と無縁ではいられないもののはずです。美術作品を鑑賞するときに感覚的な水準で好悪を感じるのもその表れですよね。ただ「情報」という言葉に対してニュートラルなイメージがあるがゆえに、往々にしてその部分が見落とされがちになってしまう。今の文芸部の生徒の話は、ちゃんと情報を消化しなおかつ創作という形で「表現する」というレスポンシブルな関わりをしていたからこそ生まれてきた「教養的」態度なんじゃないでしょうか。

鵜川 それって、アクティブラーニングが目標としている生徒像と重なりますね。知識や情報を用いた「教養的」態度を、活動を通して経験知として身に付けることが期待されている。でも、体験がそのまま血肉になるかというと、そうとは限らない。そこで、やっぱり僕はロールモデルの構築が大切だと思うんですよ。
 最初の方で、「映像的なイメージが身体動作のモデルになっている」という話をしましたが、これからの子どもたちが構築するロールモデルも、そういったものになるのかな、と思っています。「映像的」と言っても、タレントやユーチューバーをモデルにしろ、っていうことではなく、僕は、身近な人にモデルを見つけるのがいいと考えています。クラスメイトでも先輩でも、何なら後輩でも構わない。周囲の人の「価値判断と行動」のいい部分を繋ぎ合わせて、自分だけのロールモデルを構築する。
 ロールモデルって言うと、将来の自己像を投影できるような人を見つけて、その人の人生を参考にして、なんてことを考えがちですが、もっと短期的なものでいいと思うんですよ。どんどんモデルを更新しながら、自分の「価値判断と行動パターン」を鍛え上げていく。その上でもう一つ大切なのは、「身近な人」の幅を広げていくことです。活動や交流の場を、日常的な生活空間から広げていって、色々な人たちと出会う。そういう集まりには、世代に関係なく「意識の高い」人たちが混じっています。そういった出会いの中からロールモデルを見つけられると最高だと思います。

細井 ロールモデルについて言えば、人々は今も昔もそういう存在を見つけて指針や参考にしてきたと思います。大文字的な存在で言えば、昔なら松下幸之助とか本田宗一郎、あるいは戦国武将、幕末の志士という感じで。2000年代半ばは「ホリエモンみたいになりたい」という生徒もけっこういました。サラリーマンでも身近な上司や先輩をロールモデルにしていたと思いますし。ただ、今はそれがとても多様化してきているということなんでしょうね。
 2年前に高1の担任をしていたんですが、LHR活動で「人物ドキュメンタリー」の制作というのをやりました(これもクエストカップを参考にしています)。対象とする人物の選定はそれぞれのグループに任せたんですけど、中には乃木坂のメンバーを挙げてくるところもあって。やっぱり男性、なおかつ企業家や発明家を選ぶグループが多かったので、「ダイバーシティという観点からもアリじゃない?」とアドバイスしました(笑)。
 そんな中で、「なぜその人を研究したりロールモデルにしたりするのか」という観点=人物評価の視点も多様化していると思います。鵜川さんが言うように、自分自身が今いる以外の場所と接することによって観点や価値観もまた広がると思うので、貪欲な態度で世界を広げていってほしいですね。

鵜川 今、細井さんのおっしゃった「人物評価の視点の多様化」は、本当に大切だと思います。特に僕が、直接関係を持った人をロールモデルとして推すのには、そのあたりに理由があって、メディアを通して得られた人物像って、良くも悪くも成功物語として語り直されてしまっていて、日常レベルでの「価値判断と行動パターン」の参考にするには、立派すぎるんですよね。

細井 確かに、まず“偉い人”“凄い人”という枠づけがされているから、ネガティヴなエピソードも「語れる範囲内で……」みたいになりがちですよね(笑)。

鵜川 ちょっと毛色の違う例だと、大野正人『失敗図鑑 すごい人ほどダメだった!』(文響社)とか、テレビ朝日で放送中の「しくじり先生」なんかは、単なる成功とは違う文脈で色々な学びが得られるところが僕も大好きです。

 ただ、これらは心掛けの話になってしまっている部分が多くて、具体的な行動レベルに落とし込むことが難しかったりします。
 この十年、有名無名にかかわらず、いろんなすごい人と会って話す機会がありました(もちろん、その中には生徒もいました)。そういう人たちには、物語化された時にはこぼれ落ちてしまいそうでも、「これはかっこいい」「これはすごい」みたいな瞬間が必ずあって、そういった発見は明確に僕自身の日常レベルでの行動に影響を与えています。
 価値観が多様化する時代だからこそ、幸せで楽しい自己像も多様化するし、そこにたどり着く手段も多様化します。にもかかわらず、僕たちの目に触れる世界――身近な他者とメディアとに取り囲まれた世界――は、本当の意味で多様化しているかというと、それほどでもなかったりする。だから、まずは今いる場所を――一見居心地がいいけれども、世界の変化からは取り残されてしまっている自分の場所を――外から眺められるところまで離れることが必要なんじゃないかなと思います。 

細井 正之(ほそい まさゆき・国語科)
鵜川 龍史(うかわ りゅうじ・国語科)

Photo by Fred Kearney on Unsplash

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