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「菅江真澄の猿酒」について

 猿酒(さるざけ)とは、樫や椎の実を原料とした果実酒の古名である。糖度が高く、独特の風味があるそうだ。おそらく市場に出回るものではないだろう。Wikipediaによれば、猿が木の洞に貯めていた木の実(猿梨)が発酵したのを古代人が飲んだのが起源なのだとか。

 だが、私がこれから書こうとしているのはこれらの猿酒についてではない。現在はWikipediaの「猿酒」のページから削除されてしまったある奇妙な記述についての調査報告である。

 かつてWikipediaの「猿酒」のページには、次の項目が立てられていた。たった一行なのだが、もの凄く気になる記述だ。

【菅江真澄の猿酒】
これは猿を原料とした酒(詳細不明)であり、一般に言う猿酒ではない。

 いったいこれはなんだろう。
 まず、菅江真澄自体が私にとっては未知の人物である。調べてみると、日本における民俗学者・博物学者のはしりのような存在であるらしい。活躍したのは江戸時代後期で、経歴に多少の紆余曲折はあるにしても、ごく尋常の人物である。少なくとも、猿を食ったとか、酒にしたという奇行に及ぶとは思えない。となると、彼の専門の博物学方面での仕事に「猿酒」は関わってくる違いない。
 菅江真澄の著書としては『菅江真澄遊覧記』なるものが伝わっている。東北地方への旅の記録であるらしい。

 この本の中に、あの謎の猿酒についての記述があるような気がする。しかし、この本は2000年に平凡社ライブラリーから全五巻・全訳付きで刊行されるも、すぐさま絶版になってしまっている。
 これは図書館で確認するしかあるまい。そう思い立って、実際に『菅江真澄全集』(未來社)にあたって調べてみたのだが、これが数々の誤算によって思いのほか時間をとられてしまった。江戸の文人とあるから、著作の分量は高が知れたものであろうと踏んだのが、そもそもの間違いであった。菅江真澄全集は全十二巻――各巻いずれも500~700ページの浩瀚な書であって、この膨大な量の記述の山から件の猿酒についての記述を探すのは一苦労どころではなかった。興味がなければ、とてもやっていられない。

 大学図書館に篭ること三時間、私はとうとう猿酒についての記述を発見した。それは『菅江真澄全集』第六巻所収、『雪の出羽路 平鹿郡』第十四巻中の一節「山内脱漏(やまじのおちば)」の中にあった。以下に該当箇所を全文引用する。なお、難読文字には読み仮名を振り、欠落部には仮名を補った。

田代村に代々(よよ)嶋田源助といふ旧家(ヤド)あり、此民家(いへ)に猿酒てふものを造(かみ)して沽(う)る也、こは腹の病にしるしありといへり。此嶋田が上祖(かみ)は伊勢ノ国より来る人にて、創(もと)は山北金沢に居住(すみ)て家衡に仕ふ。ある人の云、猿酒は金沢の城主家衡の家方にて、実父(おや)清原武則ノ代獼猴(さる)三頭を捕りて皮と筋骨とを去り、胆と背肉を寒水にひたす事卅日(みそか)、かくて日に乾し美酒(さけ)に漬(つけ)、また六月(みなつき)の炎天(そら)に乾(ほし)、かくて後塩水にひてて甕(かめ)に内(いれ)て、蓋をふんして三年を経て、一盞(ひとつぎ)飲(のめ)ばまた塩と水とを一坏(ひとつき)入レ、一合汲(くめ)ばまた前(さき)の如(ごと)に塩と水とを入也。しかして後は千歳を経(ふる)とも、つゆかはる事なし。病兪る事、またなき薬也といへり。後三年の落城のとき、此獼猴酒(さるざけ)甕(かめ)を持去(もちさ)りて山内(ひらか)の田代邑に身をまたく避(のが)れて、其代は家に鞍、鐙なンども持(あり)しが、菩提寺なれば金沢の祗園寺禅林に寄附せしよしをいへり。

 「菅江真澄の猿酒」とは菅江真澄が作った猿酒という意味ではなく、秋田県平鹿郡山内村の嶋田源助家に伝わるものを真澄が書き留めたものであった。また、「酒」といってもこれは嗜好品ではなく、薬の類であったらしい。今でいう胃腸薬だろうか。

 けれども、この「薬」というのも、はたしてそのまま鵜呑みにしてよいものやら、私はここでもまた少々迷ってしまう。というのも、以前に読んだ種村季弘『食物漫遊記』(ちくま文庫)に、日本には牛肉を食う風習は古来より存在したが、獣の肉を食うことが忌避されていたために、「薬喰い」と称されて行われていたという記述があったのを思い出したからである。獣肉を食すためには「病気」という免罪符が必要とされていたのだ。 

 菅江真澄が平鹿郡山内村を訪れたのは文政8年とあるから、西暦でいうところの1825年にあたる。猿酒を真澄が口にしたかどうかは定かではないが、ここに彼の手になる獼猴酒の図が残されている。この図には本文とは別に文章が附されている。例によって以下に全文を引用しよう。

猨酒醸甕。甲乙周回三尺八寸五分、丙丁口ノ亘七寸、戌己此高サ一尺八寸五分、色は世にいふ飴色(あめいろ)なるよし。此さる酒の瓶子すら人にひめかくして一間のくらすみに置(おけ)り。此かたはそのあるし(=主)に人の語りた(る=脱字)を聞(きき)て、凡しかならんとしるしたる也。うへも清将軍の世より伝へこしものか、そのまことをしらず。

 猿酒はどうやらむやみに人に見せるべきものではなかったらしい。やはり獣食いの禁忌が影響しているのだろうか。あるいは、ここには呪術的な意味合いがこめられていたのかも知れない。それならば秘め隠すのは当然であって、いたずらに人に見せるものではあるまい。閉鎖的な秋田の寒村ともなれば、アニミズム(地霊信仰)的な儀礼が残っているのは不思議ではない(菅江真澄はいまでは廃れてしまった呪術的儀礼を図入りでいくつも報告している)。 
 調べたところによると、この猿酒(獼猴酒、猨酒)は現在まで嶋田源助の末裔にあたる島田清家(山内村土渕郡字軽井沢)に伝えられているらしい。島田家のツヤさんによれば、太平洋戦争の頃、岩手県の人に振舞ったのを最後に猿酒を賞味した人はないそうである。しかし島田家では今でも四年に一度程塩水を足し、この猿酒を絶やさないようにしているそうだ

 さて、以上が「飴色」の秘酒「猿酒」について私が調べたことの全てである。これらの調査結果を踏まえてWikipediaの記述を補筆のうえで復活させても良いのだが、さてどうしたものか。
 いずれにせよ、私は今回の調査を十分に楽しんだ。学問の喜びは、こんな些細なことにも見出されるのだ。

小峰 隆広(こみね たかひろ・国語科)

トップ画像は地誌『月の出羽路 仙北郡』第5巻(秋田県立博物館「真澄酒物語-真澄と酒を巡る話-」)より。

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