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暗渠道への誘い 烏山川編② ~暗渠サインは時空を越えて~

前回の記事では、烏山川緑道の起点から、環状七号線との交点である若林橋までを紹介した。今回は若林橋から先へと進もう。地図を再掲する。

烏山川暗渠全景

全長7kmの道のりの、まだ2kmしか語れていないのだが、前回はチュートリアルも含んでいたので仕方なかろう。今回は一気に駆け抜けていきたい。(それなりの長文である。途中は飛ばしても、最後は見逃すなっ!)


* * *


次第に漂いだす「裏側」

s-若林支流

環七を渡ってすぐに、緑道からは1本の支流の暗渠が分岐していく。
フェンスで囲まれた細長い空間で、かなりわかりやすい。
この支流暗渠は、辿っていくと、なんと若林駅のホームの下をくぐって進み、その後もけっこう先まで続いている。
そこにも味わい深い光景があるのだが、紹介はまた別の機会とし、今日は本流を進む。


防災倉庫のある緑道

しばらくは、幅の広い、前編でも見慣れた雰囲気の緑道である。
前回の記事で紹介した「橋の痕跡」「道に対して裏口を向ける家」といった暗渠サインを感じながら進もう。
ちなみに、この写真に写っている「防災倉庫」は、緑道化された暗渠の上でよく見かけるアイテムの一つ。緑道は「公園」だということを知ると、防災倉庫があるのも頷ける。


橋ダイジェスト

若林橋~国士舘大学までの、「モニュメント型」橋跡ダイジェスト。
円柱だったり角柱だったり、もはや案内標識と化していたり、いろいろである。黒いプレートは当時のものを埋め込んだ可能性もあるが、確証は得られなかった。
左上の「天神橋」は若林駅のすぐそばにある。この橋の名と関連して、かつては「天神湯」という銭湯が、若林駅のホームのすぐ脇にあった。残念ながら2014年に営業を終了。いまは跡形もなかった。


ほかに、こういうものにも着目してみると、歩くのが面白くなる。

s-自前階段

緑道は、周囲の住宅がある土地と比べて少し低くなっている。そのため、左右の民家の裏口には、緑道に降りるための階段が用意されている場合が多い。この階段が家によって実にさまざまで、しっかりしたものから、手作り感のある素朴なものまで、個性に富んでいて味わい深い。
(暗渠研究家の吉村生さんは、著書の中でこれらを「自前階段」と呼んでいた)


国士館裏

国士館大学の裏手のあたりで、右岸のコンクリート壁が極端に高くなる。
谷の地形を感じることができる場所だ。

s-お化け排水管

そしてここで、暗渠サインである突き出し排水管の「オバケ」に遭遇することとなる。
写真ではわかりにくいが、でかい。直径50cmくらいはあるか。大学構内の排水を一手に集めてきているのだろう。同じクラスの排水管がさらに何本か連続する。

国士館裏2

国士舘大学の歩道橋の下。短い区間だが、このあたりはやや薄暗く、植物も鬱蒼としていて、暗渠の「裏側」っぽさを感じられる。


看板1

そして1枚の案内看板が現れるのだが、右下にはたいへん魅力的な図が載っていて……

看板2

世田谷区内の暗渠、だいたい書かれちゃった(笑)。
さしあたり、この地図に載っている暗渠を全部紹介するのがこの連載の目標だ。


s-城山小学校と看板

進んで、城山小学校の横を通ると、短い区間だが人工的なせせらぎがある。
小学校の隅に立っている看板には、川が水面を持っていたころの貴重な写真が載っているのだが、汚れてしまってあまりよく見えないのが残念。(この写真はこのあと別の看板にも登場する)


橋ダイジェスト2

この先の区間では再び、モニュメント型の橋跡が連続する。特に下段のタイプは、橋の名前を示しただけの「記念」にすぎず、当時の橋の構造物を一切含んでいない。
歩いていると「けっこう頻繁に橋があるんだな」ということにも気づく。幅の狭い川なので、橋を架けやすかったのかもしれない。

青葉橋

さて、遡上そじょうを始めてから3kmあまり。青葉橋跡の地点から、ついに「自転車走行禁止」の区間が始まる。
理由は一目瞭然、ここから道幅がかなり狭いのだ。
(ここまでの区間は、「自転車はスピードを落として」という注意書きこそあれ、自転車で走ること自体は禁止されていなかった)

いよいよ、「裏側」が本気を出してきた。


裏庭に溶け込む、背徳の緑道

ここまで歩いてきた人はおそらく「おおっ!」と声が出てしまうであろう、この地点。

城向橋

城向橋(しろむかいばし)跡の直後、わかりやすい分岐点が現れる。そう、左右どちらも川跡だ。
この旅のスタート地点、烏山川と北沢川の合流点とも似た構図である。

さて、左を行くか? 右を行くか?
迷ったら、中央のベンチで休むという手もある。
(1席しかないこのベンチ、通行人と真っ向から対峙する位置にあり、座るのはなかなか勇気がいるような……)

左の道は世田谷区桜の住宅地に入り込む支流で、中級者向け。そう長い支流ではないが、いずれ機会があれば紹介したい。
右が烏山川の本流であり、ここでは右へ進む。

すると、途端に、こんな感じになってしまう。

城向橋のあと

ここから先に断続的に表れる、道幅の狭い区間を、独断で「人んの裏庭ゾーン」と名付けよう。
道幅が狭くなってくると、ほとんど、他人の家の裏庭を通っているような感覚に陥るのだ。

単に「狭い」というだけなら、緑道化されていない他の暗渠はもっと狭く、壁と壁に挟まれた路地のようになる場面も多い。これはこれで、たいへん裏側を感じる光景だ。
ただ、緑道暗渠の狭い区間には、それとは違う趣がある。
仮にも緑道なので、道の両側、住宅との間には若干のスペースがある。しかし、そのスペースが狭く、道自体も狭いと、住宅の裏庭との境界線が限りなく曖昧になってくる。

実際、この区間を通ると、洗濯物とか、物置とか、雑然と雨ざらしで置かれた家財とか、そういうものが視界にばっちり入ってくるし、手を伸ばすと触れる距離にあったりする。
プライベートを緑道側に浴びせてくるような、裏側むき出しの家もあって、正直、写真を撮るのもはばかられる場面がある。

近隣住民の方々以外はあまり通らないんだろうな、という雰囲気であり、なんとなく「お邪魔しまーす」と心の中でつぶやきながら通っていく。
「ここ、通っていいんだろうか」という気持ちにもなる。

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少し進むと、となりに車道が並走してきて、やや開けた道となるが……

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それも束の間、また裏庭ゾーンになる。
ガーデニングの花々が綺麗で癒されたので、ここでは写真を撮らせていただいた。この場所だけ花がたくさん植わっていたので、ここの住宅の方が手入れされている可能性も十分あると思う。だとするとやはり、庭と緑道の境界は曖昧だ。

世田谷線踏切前2

そしてその先は、かつての水面ラインが東急世田谷線によって分断され、真上をたどれない場所である。
駅でいうと、宮の坂駅のすぐ南側である。近くの踏切で迂回すると、緑道が続いている。


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その後も、裏側っぽい場所が続いていく。


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さらに進むと、鷗友学園の裏手にあたる場所で、「万葉の小径」と名付けられた道に入る。
短い区間だが、ここには様々な種類の植物が植えられており、それにちなんだ和歌のプレートが立てられている。

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しかし、風流な名前と看板とは裏腹に、植物はなかなかに茂っており、野趣にあふれている。道幅は、これまでで最も狭く、民家との距離も近い。
道がまっすぐでないのでなおさら、緑色の「圧」を感じる地点となっている。


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このあと、三度、人ん家の裏庭ゾーンにお邪魔することとなる。緑道にせり出してくる裏庭にヒヤヒヤする。
「城山通り」という車道に並行する区間に出ると、少しホッとする。


緑道自ら語る、暗渠化の経緯

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経堂大橋公園の近くには、たいへん情報量の多い看板が立っている。
それはもう、これを読んでもらえれば、私がこの川について説明する必要はほとんど無いんじゃないかというくらい。暗渠になる前の貴重な写真も掲載されているので、訪れた際は、舐めるように読んでほしい。ここでは、看板の接写をそのまま掲載させて頂こう。

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この看板によれば、烏山川は昭和30年代から川の水質の悪化が始まり、そして昭和40年代に暗渠となり、昭和50年代には緑道となったようである。

世田谷学園のベテラン教諭に話を聞いたところ、複数の方が、烏山川が暗渠になる前、つまり開渠かいきょだったころのことをご存じだった。
曰く、やはり川の水は濁っていて汚かった、臭いもした、とのことだった。
「朝と夕方では水の色が違った」という証言もあった。日中に人々が活動した結果が、生活排水として流れ込んだためなのだろう。

一方、ある職員のご主人は、小さな子どもの頃から流域にお住まいなのだが、ご主人は小さい頃に「烏山川に入って魚を取って遊んでいた」のだそう。
今の暗渠道からは想像もできないが、昔は綺麗な川で、動植物の宝庫であったことが想像される。
また、若林駅の近くにあるお店の方からは、「昔は烏山川の水で染め物をしていた」というお話を伺った。水がきれいでなければあり得ない話である。その他、洗濯などにも普通に川を使っていたのだそうだ。
(※天神湯の正確な位置を知りたくて、ちょっと聞き込みして回っていた)

かつて田畑の広がるのどかな農村地帯を流れる清流だった烏山川は、都市化の波に呑まれ、ドブ川と化してしまった。悪臭に対する区への苦情も多かったと聞く。
そして、臭いものに蓋がされてしまった。仕方のない展開ではある。
それ以外に、暗渠にされたのは、氾濫を防ぐ治水という側面もあった。
烏山川に限らず、都内の中小河川の多くがたどった末路とは、そんなところなのである。


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さて、忘れるところだったが、この近辺の橋跡モニュメントダイジェスト。
「菫橋」は単なる1本の車止めに名前を書いただけで切ない。

そういえば、書きそびれていたが、「車止め」は重要な暗渠サインでもある。川に蓋をしただけの暗渠は、重量のある車が通行すると破損する恐れがあるため、入り口に車止めを立ててある場合が多いのだ。暗渠探索の大きな手掛かりとなる。
これまで紹介してきた「橋」がある場所には、たいてい、何らかの車止めも設置されている場合が多い。


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「中村橋」と書かれた車止め。この先の区間は、車止めが橋跡のモニュメントを兼ねるケースが増えてくる。
中村橋という名前は、すぐ南にある信号の名前に残っている。

このあと、小田急線の経堂駅と千歳船橋駅の間で、緑道は高架下をくぐり、進路をやや北向きへと変えていく。


交差する「水流」、ついに見下ろす「水面」

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前編では出てこなかったが、小田急線を越えた後は「団地」という暗渠サインをよく目にする。写真はフレール西経堂という大きな団地。他にも大型のマンションが多く見られ、すぐそばには都立千歳丘高校がある。大規模な土地開発がしやすい場所であったことを窺わせる。


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このエリアは、橋跡モニュメントの統一感に欠ける。
「中之橋」に至っては、看板の中に名前が出てくるだけになってしまった。でも名前がついているだけまだいい。


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世田谷区船橋4・5丁目の境界、都道428号線(荒玉水道道路)を横切る地点には、明らかに古びたコンクリートの塊が残っている。確証がないが、かつての欄干ではないか?

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ここの橋にも名前があっただろうに、どこにも書かれていない。烏山川緑道は橋の名前をかなり丁寧に保存してくれている印象があるが、ここを含めて何箇所か、無名の橋が存在する。
ここで交差する荒玉水道道路は、地下に水道管が敷設された道路で、杉並区梅里(新高円寺駅の南)から世田谷区喜多見までをほとんどストレートの直線で結んでいる。つまり、この名もなき橋の下で、2つの水流が交差しているのだ。ならば、なおさら名前くらいあってもいいのに……と思う。

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かと思えば、直後には「希望丘大橋」を名乗る橋の跡がある。
なんだか、たいへん立派で大きな橋をイメージさせる名前だが、実際の橋の長さは写真からお察しいただきたい。


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希望ヶ丘団地の中を通るときが、緑道として最も幅が広いかもしれない。開けた広場になっていて心地よい。
そしてこの直後、この緑道で初めての光景に出会う。

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ここに来て初めて、緑道が橋の下をくぐるのである。橋の名は「本村橋(ほんむらばし)」。
植物に覆われた左右の壁は、当時の護岸だった部分と思われる。
水の流れをたどってきた、ということが実感される。

今度は、橋の上から「水面」を見下ろしてみる。
このアングルと構図は、「ここ、川だわ」と感じさせる。かつての水面が目に浮かんでこないだろうか。

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本村橋には竣工年が書かれておらず(植物で埋もれて見えなくなっていたのかもしれない)、いつからあったものかはわからなかった。
しかし、橋としての機能を保って現役で存在している橋に出会うのは、この緑道を歩いていて初めてのことだった。


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団地を抜けた先にある「梶山橋」の橋跡はちょっと変わった風貌。
おそらく当時のものと思われる欄干のコンクリートを、白いタイルでリメイクしている。全部を覆わず古い部分が見えるようにしてくれているあたりは、暗渠愛好家への配慮ではないかと感心する。

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緑道はここから都道に並走し、希望ヶ丘公園の横を抜け、

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千歳清掃工場と温水プールの間を抜けていく。やはり、広い土地があったために立地していると思われる。

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そして、都道311号線(環状八号線)にぶつかったところで、

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唐突に、烏山川緑道「最上流部」という看板を残して終わる。



…………えっ、終わってしまった。



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ゴールであることを示しているのかは謎だが、この場所に噴水がある。
ただし水は出ていなかった。


目の前には凄まじい交通量の環状八号線、
左には粗大ごみ中継所、
右には清掃工場。
たいへん人工的なものばかりに囲まれた、無機質な場所になってしまった。

ここは世田谷区船橋7丁目。起点からは7.0km。
長くなったが、烏山川緑道の遡上を終えることにしよう。





いや、
まだ終わらない……!



アディショナルタイムの劇的ゴール

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実は、100mほど手前、希望ヶ丘公園の前で、右に分岐して橋をくぐるルートがある。
ここで右に向かう方こそ烏山川の本流である。真っ直ぐに向かう川は、厳密には「水無川」という別の名の川だ。

先ほどの「最上流部」の看板より先、環八を渡った先にも、水無川の暗渠が続き、一部は緑道化されている。ただ、「烏山川緑道」としては終了していることもあり、そちらは本稿ではこれ以上追わないことにする(実は私自身もまだ最後まで追いかけていない)。また別の機会で紹介したい。

というわけで、もう少しだけ、烏山川を歩いていこう。


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分岐してすぐ、川跡は「千歳橋」という橋をくぐる。先ほどの本村橋と同じく、現役の橋である。
橋の上から眺めてみると、川跡には池や水路が作られ、「じゃぶじゃぶ池」と紹介されている。晩秋に撮影したので水は流れていなかったが、夏場は水が流れており、子どもの遊び場になっている。


この先は細い。そしてやはり、裏側だ。

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すると、この終盤に、かなり珍しい暗渠サインが現れる!!


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暗渠サイン「遺跡」


……い、いいい、遺跡って!(笑)


見学できるものなどはなく、解説の碑があるだけだが、この近辺には縄文時代の集落跡があったそうで、「八幡山遺跡」と名付けられている。
縄文人だって、もちろん、水がある場所の近くに住みたかっただろう。だから、遺跡があるというのは近くに川があった証拠になりうる。
レアなケースではあるが、他にも、例えば渋谷の川跡の周辺で遺跡が発見されているという。

それにしてもだ。
昭和の時代に暗渠化された川の痕跡を、
令和の時代に辿っていたら、
縄文時代の遺跡に辿り着いてしまった。
烏山川の水面は、地図上でいろいろな地点をつないでいるだけでなく、さまざまな時間軸をもつないでいた。
などと言ってしまうと大げさだろうか。

でも、川が地形を作ったのはそれこそ有史以前の話で、烏山川のストーリーはその時代から始まっている。
そこに人間が、のちに遺跡となる集落だったり、のちにモニュメントとなる橋だったり、のちに川の暗渠化の原因となる都市だったり、時代の異なるいろいろなものを重ねていった。
暗渠化によって一部は消されてしまったものの、くっきりと残っているものがあって、それこそが暗渠サインだったのだ。
現代のわれわれは、川跡を通じて、暗渠サインを通じて、「時代の重なり」を見ていると言えるのではないだろうか。



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それらしいことを言ってまとめた風になってしまったが、もう少し続く。
遺跡のモニュメントの先には、「道草橋」というナイスな名前の橋がある。
ええ、そうですとも、私はこれまでさんざん道草を食ってきましたとも。
これは当時の親柱だそうで、4本すべてが健在である。昭和35年の橋だ。


さて。
劇的な展開は、この道草橋のすぐ先にも待ち受けている。

起点から7kmにわたり、地面の下にもぐったまま、サインだけを地上に残していた烏山川であるが。
なんと、この地点でついに、地上にその姿を現す「開渠」となるのだ!


刮目せよ!!


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ただし、水は流れていない。

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川がどうとかいう話ではなく、植物にびっしり覆われ、傍目にはもう、なにがなんだか。

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歩道橋の上から撮るとこんな感じ。なにがなんだか。

ゴミが投げ入れられているのも見えてしまった。悲しい。
事情を知らない人なら、ここが川だったとはわからないだろう。やはり、川というのは水が流れていてこそ、ということになってしまうだろうか。

さっき勢いで「開渠」と書いてしまったが、厳密にいうと開渠ではない。この部分も、他と同じく、地下に土管が埋めてあり、その中を下水道幹線としての烏山川が流れている。土管の上の部分が、舗装された緑道になっておらず、ただただ放置された姿である。
昭和50年代にこの川が緑道化される前は、こうした場所が他にもたくさんあったのかもしれない。

ともあれ、ここは当時の面影を残した貴重なエリアと言える。
すぐ先の区間は、また遊歩道の舗装に戻ってしまうのだ。

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結局、未舗装の荒れた区間は、100mにも満たなかった。

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そして、特に信号も何もないところで、緑道は左にカーブして途切れる。(写真は歩道橋の上から撮影)
この先は、環状八号線をまたいだ反対側に続いていく。人間は歩道橋で渡るしかなく、ここも水面ライン上を歩けないスポットとなってしまっている。



さて、最後に劇的な展開を迎えて「撮れ高」も確保できたし、環八でぶった切られてキリがいいので、烏山川編としてはここで終了としたい。

この先にも烏山川は続いているのだが、だんだんと緑道が不明瞭になって、分岐・合流を繰り返すようになる。川は初心者向けを卒業して、中級者向けコースへと変貌していく。これはこれで面白そうなのだが、いずれまた「烏山川上流編」として紹介することにしたいと思う(私もまだ少ししか探索しておらず、最上流部は地図上でしか見ていない)。
もうすでに「烏山川緑道」という名前も無くなっている。だから、「烏山川の緑道を辿る」と言って始めた烏山川編は一旦このあたりにして、次回はもう少し別の暗渠風景を案内することとしよう。


* * *


思いがけず長文となってしまったが、烏山川編はいかがだっただろうか。
ここで、前編でも序章でも言いそびれたことを、いまさら書いておく。

この「暗渠巡り」なる行動は、私なんかよりも前から、多くの人がやっていることである(有名な方としてはタモリさんだろう)。
さんざん出てきた「暗渠サイン」という考え方も、多くの暗渠愛好家の方々が指摘しておられるものだ。別に私のオリジナルではないので、偉そうに言うようなことでもない。

暗渠を語る上で外せない先人は何人かいらっしゃるので、その著書とともに紹介させていただきたい。
まず、本田創さん。著書「東京『暗渠』散歩」は私が最初に購入した暗渠本であり、探索の際にはこの本に付属している暗渠地図を持ち歩いて大変参考にさせていただいている。

他に、本田さんが関わった「東京23区凸凹地図」という地図本も愛読させていただいている。暗渠、階段、地形などにフォーカスした特殊な地図だが、23区が生活圏の方にとっては、ページをめくってみると必ず新しい発見がありそうな地図である。

「暗渠マニアックス」というユニットでも活動中の、髙山英男さんと吉村生さんも、暗渠に関する文章を多く著されている。お二人の「水路上観察入門」という本は、暗渠を歩く際の視点を広げてくれる。

以上のお三方に加えて、デイリーポータルZなどで路上観察記事を多く手がける三土たつおさんを加えた4人での共著「はじめての暗渠散歩」も、暗渠巡りの入門書として非常に楽しく読ませていただいた本である。

私の記事をこんなところまで読んでしまった人は、もう多かれ少なかれ暗渠にハマっているのではないかと思うが、そんな方は以上の4冊をどれも楽しく読めると思う。よければ探してみていただきたい。


他にも、暗渠を探索してインターネット上に記事を上げている先人はたくさんいる。というわけで、実のところ私は、何番煎じかもわからないようなことをしているのだ。
ただ、私は私の切り口で書いたつもりだし、今後もそんな感じで語りたいと思っている。
それに、暗渠の周辺はある意味「生き物」であり、数年前には違う光景だった地点もある。数年後には変わっている光景もあるかもしれない。だから、現時点での記録を誰かが残すことには、きっと意味がある。


* * *


さて。長くなりすぎた。
これで本当におしまいにしよう。

この次は、世田谷区千歳台のあたりを源とし、千歳船橋駅と祖師ヶ谷大蔵駅の間で小田急線をまたいで、砧公園を抜けて南下していく谷戸川やとがわを紹介したいと思う。お楽しみに。


次回予告
二つの意味で早く見るべき、谷戸川。


柏原 康宏(かしわばら やすひろ・理科教諭) 




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