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「古典」をありがたがるな!~「古典」から「ニュー・スタンダード」へ~

※「学友」228号(2022年3月発行)に掲載された、世田谷学園の教員による一回読み切り型連載対談です。

「古典」ブームは今に始まったことではない?

細井 あけましておめでとうございます!
 2022年も始まりましたね。新型コロナウイルスの感染状況は昨年末には一度落ち着いたものの、ここにきてオミクロン株が爆発的な流行を見せ、本学園でもオンライン授業が始まりました(1月24日現在)。
 さて、そのコロナ禍で本の売り上げが伸びていたそうです。いわゆる「巣ごもり」で読書をする機会が増えたということらしいんですね。僕は実店舗で本を買うことが多いんですが、店頭で平積みになっている本はとにかく多様です。その中で、いわゆる「古典」とされている作品の入門書や解説書って、よく「ブーム」というような言葉で言われることが多いじゃないですか。最近だったら「100分de名著」とか。でも、僕の感覚からすると、いつの時代も古典はブームというか、ひとつのジャンルとして存在しているという印象を受けるんですよね。

鵜川 ジャンルというと、今、新しく書かれているものからは切り離されて、単独のカテゴリーとしてくくられるような共通した要素がある、ということでしょうか?

細井 そうですね。今の話で指摘したように、その作品に対する入門書や解説書がある作品群ですよね。つまり、一定の社会的・歴史的評価が確立している作品ということです。日本の文学作品なら、それこそ古くは『源氏物語』から最近なら村上春樹まで、という感じでしょうか。で、こういう「古典」を好んで読むタイプの読者というのもまたいる気がするんですよね。だからこそ、ジャンルとして成立するわけですが。

鵜川 「解説書がある」ということで考えると、やはり、単なるスタンダード・ナンバーというより、ある種の正しさが求められる領域である気がしますね。作品そのものだけでなく、その作品の解釈や価値づけまで含めて、一定の枠内に収まっていることが重要、というか。だからこそ、教養と親和性が高いのでしょうか。それが、「古典」を好む人たちとどの程度重なるかは、議論の分かれるところかもしれませんが。

正統性や権威性と結びつく「古典」

細井 正統性というのは重要な指摘だと思います。さっき村上春樹の名前を出しましたが、例えば池井戸潤や重松清ってドラマ化されている作品がたくさんある人気作家じゃないですか。でも、彼らの作品は古典扱いされないですよね。それは村上春樹がいわゆる「純文学」の作家で、池井戸さんや重松さんは「エンタテインメント」の作家とみなされていることに対応していると思うんです。社会的・歴史的に認められた正典(カノン)=「古典」、それを享受する人が「教養人」みたいな構図がそこにはありますね。
 で、僕自身はいわゆる古典の評価や解釈に対して疑問を持つことがあるんですよ。「一般的にはこう言われているけど、本当にそうなのかな?」って、実際の作品にアクセスするとよく思います。そういう回路がいわゆる古典ファンには薄いように感じてしまうんですよね。

鵜川 同感です。友達の美術家とたびたび話題になるのが、日本人はアートを買わない問題(笑)。世間的な評価が定まっていないものを、自分の目利きで購入しようとしない、というような話です。アートの購入まで行かなくても、ハイカルチャーに位置付けられるものに対して、自分なりの評価や解釈をしようとしない人は多いです。逆に、評価が定まっているものについては安心して褒めるし、知識を垂れ流したりします。
 僕は「芸能人格付けチェック」という番組が苦手なんですけど、あれって、目利きと人物評価を結び付けるじゃないですか。いいもの(=世間的に良いとされているもの)を見抜ける人は、人間としての格も高い、みたいな。でも、これこそまさに日本的メンタリティなのかな、と思ってしまいます。

細井 名アスリートは人格者である、みたいな言説も同根ですよね。スポーツ選手としての能力と人間性は本来別個の資質のはずなのに、それが混同されてしまっている。
 それはさておき、「古典」というブランドや権威づけに安心している人は多いですよね。人間ってできれば失敗をしたくないから、食べ物とか服とかでも外さないものを選ぼうという心理が働く面があると思うんですけど、僕自身の経験からすると失敗しないと判断力も育たないと思います。

「古典」だから価値があるのか
価値があるから「古典」なのか

細井 このへんからが本題なんですが、「古典」は必ずしも普遍的ではないというのが僕の持論です。どういうことかと言うと、ある作品が意味や価値を持つかは個人と時代というそれぞれのフェイズによって決まる部分があるんだと思うんですね。まず前者に関して言うと、ある古典作品に対して面白いと思えなかったというパターン。先日、母親と話をしていてフィッツジェラルドの『グレイト・ギャツビー』の話になったんですが、「私、あんまり面白いと思えなかった」って彼女が言ってて。僕は『グレイト・ギャツビー』を称賛しない人を人生で初めて見ました(笑)。

鵜川 ごめんなさい。僕はあんまりよく覚えていない(苦笑)。ディカプリオ主演の映画の方は好きですが。

 「古典」は普遍的ではないという考えには、僕も同意します。加えて、「古典好き」の人たちは、時代を超えて愛され続けている=普遍的な価値を持っている、っていうところにこだわっていることが多い。もしそれを「普遍的」と言うなら、これはもう作品評価ですらない。
 よく話題になるのが、演奏会で取り上げられる作曲家が偏りすぎている問題(笑)。例えば、ベートーヴェン、ブラームスやチャイコフスキー、ドヴォルザークなんかは、どんな演奏回数ランキングを見ても名前が出てきますが、これは価値の問題ではなくて、知名度の問題ですよね。集客力のある曲が何度も演奏される。BGMで使われるクラシック音楽も同じです。「ベートーヴェンは素晴らしい。なぜなら、時代を超えて演奏され続けているから」─はいそうですか、って感じですね。
 僕自身は、ベートーヴェンは好きな曲が多いです。特にピアノ・ソナタ。最近、うちの小四の次男は、Alexa(リビングにAmazon Echoがいます:笑)にクラシックをかけさせてますが、中でも繰り返し聴いているのが「運命」。それも、カラヤンが指揮しているもの。テンポが速くてドライブ感が半端ないです。

 もちろん、知識があれば、より楽しめる、理解が深まることは否定しません(し、大切だとも思います)。でも、この順番は逆じゃない。知識にもたれかかって自ら評価することを放棄するなら、それは消費と変わらないと思います。

細井 「価値があるからいい」のか、「いいから価値がある」のかの違いですね。
 で、もう一つの時代性の話です。「価値があるからいい」という立場の人は、ある作品に固有の価値があると考えていると思うんです。例えば「運命」の持つ価値は作品発表当時でも現在でも変わらない(どころか、時の流れの中で価値を増している)という発想だと思うんですね。僕は逆です。近代のある一時期には、クラシック音楽の中でベートーヴェンの構築的なそれは最高のものとされていた。でも今はもう少し破綻があったり、前衛的な要素を持ったものも評価されるようになってきている。僕はサティやドビュッシーといったフランスの作曲家が好きなんですけど、まさにそういう感じですよね。ベートーヴェンの作品の価値は、そういう意味では相対化されたと言えるのかもしれない。日本の文学作品で言えば、大昔は山本有三『路傍の石』とか下村湖人『次郎物語』みたいな教養小説がスタンダード化していた時代もあったわけですけど(どちらも戦後の一時期、道徳的な文脈で評価された作品です)、今これを古典的名作として推奨する人はほとんどいないと思うんです。今挙げた例のように、作品に固有の価値があるわけではなくて、作品の価値というものは常に変化しているものだと思うんですよね。

鵜川 そう思います。もちろん、時代状況に照らし合わせて鑑賞することも、作品の一つの価値に接近する方法ではあります。例えば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタは、ピアノという楽器の進化史と密接にかかわっている。それを知った上で鑑賞すると、また新しい発見があります。
 一方で、今の我々の音楽経験や日常的な視聴環境を無視して音楽を価値づけることはできない。僕自身で言えば、クラシック音楽の影響を受けて生み出されたロックやメタルを聴いて育ってきた以上、その経験を抜きに「運命」を鑑賞することはできません。あるいは、次男はサブスクリプションのサービスを経由することで、様々な時代の様々なアーティストたちによる音楽をフラットに鑑賞している。ベートーヴェンとチャイコフスキーとすぎやまこういちが、彼にとってはフラットにカッコイイ音楽として並んでいる(すぎやまこういちはサブスクにないのでMP3プレイヤーで聴いてますが)。
 そう考えると、長い時間に晒されてきた作品を「古典」というジャンルに囲い込もうとすること自体が、自分の価値観に自信がない人たちの自己防衛なんじゃないか、っていう気がしてきます。

ガラパゴス化しすぎ! 国語の定番教材たち

細井 「古典」というセーフティー・ゾーンにいる限り、自分の価値観を揺るがせられることはないですからね。だからこそ、「古典」のあり方についてはもっと議論があってしかるべきだと僕は思うんです。今言ったように、「古典」というのは固定的なものではなく、「古典たりうるか?」というのをその時代その時代で問われて更新されていくべきものじゃないかと。
 こう考えるのは僕の担当している国語という科目の特殊性(?)かもしれません。国語は基本的にある文章を教材として取り上げて学習するというスタイルです。その中で定番教材ってありますよね。高校なら「羅生門」「山月記」「こころ」、小・中学校なら「ごんぎつね」「少年の日の思い出」とかです。で、やっぱり今の時代に即していないのではないかという作品や部分があるんだけど、「なんでこの作品をやるんですか?」という生徒の素朴な問いにとりあえず答えられるようにしなければならない(笑)。こういう葛藤をする中で、僕の「古典」に対するまなざしが形成されてきた面はあるかもしれません。

鵜川 せっかく国語科二人の対談なので、国語の教材に絞って話を進めましょうか。細井さん的に、定番教材の意味ってどういうところにあると思いますか。僕自身は、世代を超えて語れる共通の話題を提示する、ぐらいの価値しか見出せていないんですけど。

細井 うーむ、僕も明確に「これです!」という答えはないですね。20代の頃だったら「漱石作品の主人公=近代知識人のあり方は薄まっても根底では現在の僕たちと繋がりがある。だから「こころ」を読む意味があるんだよ」とか言えたんですけど(笑)。
 とりあえず読者=生徒からするとあんまりいいことはないですね。徒らに昔の時代設定の作品を読まされることになっていくので、どんどん科目としての古典作品を読むのと変わらなくなってくる。ただ、教える側からすると、同じ作品をひたすら読み直しているので、そこでの発見というのはあります。それを授業に反映させていくというスタイルを僕は取っていますね。それは作品の受容史とも関連性があると思うんですが、わかりやすいところで言うと「走れメロス」の「メロスはほとんど走っていなかった」という指摘を中学生がしてちょっと話題になったんですが、それの文学批評版をやっている感じですかね。

参考:理数教育研究所・主催「算数・数学の自由研究」作品コンクール(二〇一三年度)入賞作品「メロスの全力を検証」(リンク先で作品のPDFが公開されています)

 例えば「信頼できない語り手」というのは文学理論では定番の概念ですが、それを「少年の日の思い出」や「故郷」で扱ってみる。もちろん他の作品でもできるんですが、読みが固定化されているというイメージがあるからこそ積極的にアプローチできるというのはあるかもしれません。

鵜川 そうなんですよね。だから、教員が主導権を握って授業を進行していた時代には、一定の意味があったのかもしれません。それが変わろうとしているのが今です。僕自身のことで言えば、ここ数年、少なくとも小説教材に関しては、ほとんど生徒主導で授業を展開しています。もちろん、どの意見を膨らませるか、出た意見に対してどのような質問をぶつけるかなど、誘導しながら作り上げていく部分は大きいですが、展開の起点は必ず生徒に置いています。そうすると、ますます定番教材である意味が薄れていくんですよね。
 ただ、じゃあ具体的に何を扱いますか? ってなった時に、ぶっちゃけ何でもいい。決め手がないから、とりあえず今あるもので、となる。
 本当は、生徒自身が選んだ作品を授業で扱う時間があってもいいんですよね。ただ、それをやるにはクラスの人数が多すぎる。四十数人で一つや二つの作品に絞り込むのは、無理があります。

時代に即した「古典」のあり方とは?

細井 「古典」の価値をひとつ言うとするならば、それはレファレンス(参照項)としてのそれだと思います。例えばギリシャ哲学が現在どれだけのアクチュアルな価値を持っているかというと、僕はそこまでないと思うんですが(暴論!)、人類がどのような経緯で思想というものを形成してきたかを考える上では意味があると思うんですね。それと同様に、国語における定番教材もまた、文学史的なものを考察するときには有用な面があるとは思います。ただ、これに関して言うと高校生向けですよね。そういう意味ではバッハの作品というのは、レファレンスとしても機能するし現代性も持っている。凄いです(笑)。

鵜川 レファレンスとしての価値なら、入門書や解説書でも、ある程度以上にその役割を果たせてしまうのかもしれませんね。プラトンを読まなくても、解説書で十分そのエッセンスは捉えられる。逆に、原典に当たったとしてもエッセンスを捉えられるかは分からないわけですし。
 ただ、細井さんから話の出たバッハが、どうして現代の音楽と同列で鑑賞可能か考えてみると、バッハの作品が依拠する音楽の文法が、現在の我々のそれと同じだからだと思うんです。それは、そもそもバッハ自体、時代としては言うほど古くない(活躍したのは18世紀です)ということもありますし、この辺りの時代に成立した音楽理論が現代の西洋音楽の基盤になっているということもあります。
 文章は、その辺り、もっとシビアですよね。百年前に書かれたものでも、今の人にとっては既に読みづらいものが少なくない。日本だと、新感覚派とかプロレタリア文学とか、その辺の時代ですね。そういう意味で、現在流通している作品と同列に並べて評価することが難しい。
 でも、これ、海外の作品だと、新訳という形での語り直し(言い過ぎ?)が可能なんですよね。もちろん、訳を新しくしたからと言って、即読みやすくなるとは言いませんが、それでも、手に取りやすくなることは確かです。何しろ、文字の大きさや使われている書体が変わるだけでも、読書体験が変わるというのが、本というメディアの面白いところなので。その点、光文社の古典新訳文庫が果たしている役割は、すごく大きいと思います。

細井 確かに、バッハの件は鵜川さんの指摘の通りですね。いわゆる西洋クラシック音楽と地続きだからスッと聴ける部分がある。日本だと言文一致以降の文章を読んでる感じです。僕のさっきのコメントは「やっぱり漱石は凄い」と言ってるのと変わらないか(笑)。
 村上春樹は『グレイト・ギャツビー』やサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の新訳を出していて、翻訳にまつわる文章の中で「翻訳には賞味期限があるので、その時代その時代に合ったものが必要だ」というようなことを書いています。

 さっき鵜川さんが紹介してくれた光文社古典新訳文庫は、その意味で古典への入り口としてスタンダード化していますね。僕も何冊か持っていますが、このシリーズは解説も充実しているのがいいですね。

鵜川 その作品が書かれた時代状況などのコンテクストや翻訳そのものに対する理解というのが、テクストそのものの理解にもつながりますよね。特に海外文学は地域や文化の差も大きいですから。

細井 逆に日本語で書かれた文章の方が今の生徒にとって古びてきていて、アクセスしづらくなっているとすると皮肉ですよね。僕は「たけくらべ」とか「舞姫」はやっぱり「古典」として一定の価値面白さを持っているという立場なので。
 逆に鵜川さんが、これは扱った方がいいと思う作品はありますか?

鵜川 六年一貫の授業展開を考えた時に、便利なのは漱石の『こころ』ですかね。文学理論的にも近代批評的にも、扱える話題・テーマが広いので、過去の授業で扱った要素の(実践的な)復習もできますし、その後の学習では『こころ』を参照することも多い。

 『こころ』である必然性はありませんが、高一から高二前半で、そういったレファレンス性の高い作品をスタンダードとして置いておくのは、複数の人間が授業を持つ学校という仕組みの中では重要です。さっき話したこととは矛盾するようですが、六年間の中でそういう作品が一つか二つぐらいあった方がいいと思います。
 気が付いたら、細井さんがさっき挙げてくれたレファレンス(参照項)としての価値の話に戻ってきました。個人的に古典を鑑賞する場合は、先述したように、個人の能力がそれをレファレンスとして活用できる(知的財産にできる)か否かを決定付けるので、これを読むことが必ずしも有効に機能するとは限らないと思います。一方で、今話したように、授業で扱う場合には、読みの深さを教員がコントロールできるので、一定の意味を持つように思いますね。

細井 なるほど。まだまだ『こころ』は有効なのか(笑)。
 さて、今の鵜川さんの話で思ったんですが、古典が持つ社会的側面というのがあると思います。個人レヴェルで『こころ』を読んでいないことはその人の人生に特に大きな影響を与えないと思うんですが、その人が文学研究に関わる場合は読んでいることが求められると思うんですよね。アメリカ文学における『グレイト・ギャツビー』も同様です。つまり、社会的共有知としての「古典」ですね。だからこそ最初に話したような「古典好き」の人々が生産されて、下手すると「それ読んでないの?」みたいにマウントを取ったりということが出てくるわけですが(笑)。

鵜川 その辺りは、人材の流動性が高まっている今だからこそ、なおさら大きく問題化している気がしますね。
 終身雇用、年功序列が機能していた時代には、会社組織というヒエラルキーの中でどういう立場にあるかというのが、その人の価値づけでした。で、それはある程度、年齢と比例関係にあった。ところが、人材の流動性が高まると、自己を価値づける指標が無くなります。「前の職場では営業部長でした」とか言っても、何にもならない。具体的に何を成し遂げたのか、これから何をしていきたいのか――いわゆるポートフォリオ(学校で言うそれではなく)が必要になるわけですが、それが難しい。で、これは自己の価値づけだけじゃなくて、他者の評価にも同じことが言えて、誰かに評価基準を用意してもらわないと、人物評価・人材評価ができない人が多い。
 そこで注目されたのが古典的・教養的な知識なのかな、と思います。知識量という評価基準は、学校的価値観との親和性が高いので、誰もが納得できるものとして共有しやすい。さらに、欧米のエリートや名だたる経営者が古典を愛読している、みたいな言説がそれを後押しする(もちろん、最初に話した「格付けチェック」的な価値観も)。結果、社会人向け教養本が量産されている、というのが現在の状況だと思うんです。

細井 最初の話に戻ってきましたね。以前も教養本のことをこの対談で取り上げたことがありますが、僕自身は向学心というか「本を読もう!」というモチベーション自体は否定しないんです。ただ、それが自分にハクをつけるためとか、インスタントに教養を注入しようという目的だと何か違ったところに行きついてしまう気がします。
 さっき、鵜川さんから「古典もエッセンスだけなら解説本でもいいのではないか」という指摘がありました。確かに難解な哲学書とかはそういう側面があると思います。でも、小説や音楽というのはそれでひとつの体験だと僕は思っているので、やはり『カラマーゾフの兄弟』は読み通すからこそ意味があると思うんですよね。たとえ苦痛を伴うとしても(笑)。ビートルズの曲を聴かないで論じるなんてナンセンスだという喩えを使えばわかりやすいでしょうか。

 もう一つ、これも最初の話と被るんですが「古典」を刷新していくことの重要性ですね。「古典」に向かう人たちがどこかで権威性みたいなものを求めていたとして、それが空虚なものだったら「裸の王様」にしかなれないと思うんですよ。だからこそ「古典」というチームのメンバーを必要に応じて入れ替えていくべきだと思います(国語の教科書に関しては本当にやってほしい!)。

鵜川 レファレンスとしてストックするなら解説本でも事足りることが多いかと思いますが、それを「エッセンス」と表現したのは、よくなかったですね。『カラマーゾフの兄弟』の文学体験としてのエッセンスは、解説本には表れないところにありますから。

過去からではなく現代を起点として「古典」を構想する

鵜川 ただ、小説や音楽の受容を体験という次元で考えるなら、古典に限定して話をすることが難しくなるかな、と思います。古典を礼賛する人たちは、古典だからこそ特別な体験が得られると信じている節がありますが、まったくそんなことはない。あるいは、現代の作品が与えてくれる体験の多様さは、古典のそれを包摂していると思うんですよね。
 その上で、「古典」というチームの刷新を考えるんだとしたら、どういう点が選抜の要素になると思いますか?

細井 バッハもそうでしたが、やはり「何らかの形で現代との連続性を持っているもの」ということになるでしょうか。さっきから名前の挙がっている作品で言うと『こころ』や『グレイト・ギャツビー』あたりは有資格だと思います。
 逆に国語の定番教材で言うと「城の崎にて」「故郷」あたりはもういいかな、と。評論だと小林秀雄や丸山眞男も同様ですね。近代性という枠組みが前面に出すぎていて、現代の話をするには古さの方が目についてしまう。今の若い世代が『宇宙戦艦ヤマト』を観ていられないのと同じだと思います(笑)。
 2年前に中3で扱った「セメント樽の中の手紙」は、僕の中ではプロレタリア文学というイメージが先行していて、物語としても荒唐無稽なんですが、意外と生徒の反応は悪くない。そういう意味ではアリなのかもと思いました(笑)。

鵜川 連続性を考えるなら、古典だけじゃなくて、現代の作品の扱い方もセットで考えたいところですね。
 と言いつつ、美術や音楽だと、教科書でもきちんと扱われてるんですよね。音楽の教科書には現代音楽やロック、ポップスも取り上げられているし、美術の教科書でも様々なタイプの現代アートが紹介されています。ところが、国語の教科書ではそうはいかない。
 でも、これは国語という教科の怠慢とは言えない。何せ、文章というのは物理的にかさばります。教科書に掲載される『こころ』は必ず部分引用ですし、『こころ』の総量より短いからと言って『グレイト・ギャツビー』を全文掲載することはできません。それならと、文庫本で『こころ』の全文を扱おうとすれば、五回や十回の授業では難しい。そもそも、生徒に全文読んできてもらう必要がある。ベートーヴェンの「運命」は、交響曲を聞き慣れない生徒たちからすれば、長く感じるかもしれませんが、それでも約35分。授業一コマで鑑賞できてしまう。『こころ』はそういうわけにいきません。
 単純な話、中高六年間で読める本の冊数と、聴ける音楽の曲数、見られる絵画の枚数は、比較にならないくらいの開きがある。だからこそ、授業で扱う文章というのは、彼らの読書の幅を広げるようなものであればいいな、と思ってしまうんですよね。

細井 そうですね。昔、放課後に行う特別講習(生徒の参加は希望制)で「村上春樹の短編を読む」という企画をやったことがあるんですが、それをきっかけに『アンナ・カレーニナ』と『カラマーゾフの兄弟』を読んだという中学生の生徒が一人ずついました。今考えるとなかなか凄い講習でしたね(笑)。
 日本の国語教育における定番教材はちょっとガラパゴス化しすぎだと思うので、この10年くらいで見直しが進んでほしいですね。せっかく「文学国語」と「論理国語」も分かれたことですし。
 あと、鵜川さんの指摘で改めて思ったことですが、古典というのは現代という視点を抜きに語れないと思います。例えばアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』はもはやニュー・スタンダードだと思うんですが、その参照項として「ウルトラマン」や「ガンダム」があるという捉え方をすべきだと思うんですね。いわゆる歴史至上主義の人は「ウルトラマン」や「ガンダム」があったから「エヴァ」があるという認識なんだと思いますけど。だから「古典」というのは必然的に現代から照射されたそれなんだと僕は考えています。

鵜川 そうするとなおさら、現代の作品をいかに選定するかという基準が問題になってくると思うんですけど、そこでは古い「文学」の概念が大きな壁になっている気がします。実際、中高の教科書に採用されている現代の作品の中に、例えばジャンル小説(SFやミステリー等)は見た記憶がありません。
 さっき触れた、音楽や美術の教科書では、いわゆるハイカルチャーに位置付けられるものばかりでなく、ポップカルチャー、サブカルチャーも取り上げられている。現代における文化的な縦横の広がりが、音楽や美術の豊かさであり、その源流に古典的、伝統的、時には民俗的な文化が存在する。国語、あるいは文学という領域においても、同じような視座からの教材選定は必須であると言いたいですね。

細井 そうですね。「ロックは死んだか否か?」みたいな議論が90年代くらいにありましたが、「文学」もそういう領域にとっくに入っているわけで。
 ある時期から意識しはじめたことなんですが、「文学」とはされていない領域の中に「文学的」なものがある。わりとベタな体験ですが、ゴダールやボブ・ディラン、佐野元春や小沢健二なんかが僕にとってはそれでした。その意味で、「文学」にとらわれずある作品に関して「古典」であるべきか否かを生徒と議論するのが面白いのかなと僕は感じています。特に高校生以降は。例えば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、訳にもよりますが「ちょっと人を選ぶ」作品だと思うんですよね。そのへんを授業の中で議論できたら広がりが生まれてくるんじゃないかと。もちろんSFやミステリー、それ以外のカテゴリーの中のニュー・スタンダードを探していく試みもあっていいですよね。

鵜川 そうですね。我々は教科書を作る側ではなく、授業という実践を行っていく側なので、そういう意味で可能性に対して開かれていると言えます。今までは、授業中の発展的な活動や課題、あるいは細井さんからも話が出た特別講習が、そういった新しい実践の主戦場でした。それに加え、今年度から中学1・2年で始まった「土曜プログラム」は、通常の授業とは異なる活動を通して生徒の知的好奇心を喚起し、主体的な学習者としての成長を期待するものとなっています。こういう機会を積極的に活かしていきたいですね。

細井 土曜プログラム、僕も担当者として参加させてもらっていますが、『マトリックス』や『千と千尋の神隠し』といった、映画のニュー・スタンダードを扱っていますよね。実際に生徒の反応もいいですし。
 「古典」は決してカビくさいものではなく、エヴァーグリーンでフレッシュである、ということも伝えていきたいですよね。聖書なんてめちゃくちゃ昔の書物ですけど、そこからインスピレーションを得て作られている作品は星の数ほどあって、僕自身はすごく面白い本だと思います。「古典」だから取っつきにくいとか難解だという感覚でなく、フラットに手に取れるような環境を教員として作っていきたいですね。そして生徒たちが新しい「古典」を見つけてくれることを期待してやみません。

(ほそい まさゆき・国語科)
(うかわ りゅうじ・国語科/小説家)

Photo by Freddy Kearney on Unsplash

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