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音楽と映像の生み出すエモーショナル・シナジー〜「革エデュ」流映画放談(後編)

※ 教員による1回完結型連載対談記事「革命エデュケーション ex03-2」(Web版 特別編)をお届けします。
 前回の予告通り、今回は音楽にまつわる映画についての対談です。興味を持った作品があれば、ぜひ見てみてください!

細井 今回は「夏休み特別版」という感じで、映画をテーマにした対談をしているんですが、『アメリカン・ユートピア』をきっかけに話を始めた前編は予想以上にヘヴィーな展開になってしまいました(笑)。

 で、ここからはいわゆる「音楽映画」(音楽が重要な役割を果たす映画も含みます)を取り上げていきたいと思います。僕が「革エデュ」的オススメとして挙げたいのが『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』(2009年)ですね。

鵜川 なんと! 細井さんから『アンヴィル!』の名前が上がるとは!
 アンヴィルはカナダのヘヴィメタル・バンド。1978年に結成され、81年にバンド名をアンヴィルに変更して以来、30年にわたって活動しています。2020年にも『Legal at Last』という18枚目のアルバムをリリースしています。

 と言っても、実は僕は彼らのことをあまり知らないんですよね。映画『アンヴィル!』も、実は見てなかったりします(汗)。メタルをやってる知り合いが多いので、公開当時、わりと高く評価している人が多かったのを覚えています。特に、若い人たちは、メタリカのラーズ・ウルリッヒや、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュも出ているということで、アンヴィルを知らなくても注目していた人が多かったかな。

細井 鵜川さん、観てないんですか⁈ それは人生損してますよ!(笑)
 それはさておき、僕は前回話したようにジャズやR&B、ヒップホップ、ブラジル音楽などが興味の中心にはありますが、基本的にはどんなジャンルの音楽でも聴きます。ただ、メタルと演歌だけはどうにも受けつけない(笑)。そんな僕ですが、この映画はすごく面白く観ました。それは音楽的な部分よりも人間ドラマ的な部分によるところが大きくて、それはこの映画を観た他の人の感想とも共通しているんじゃないかなと思います。もちろん、メタル・ファンにはたまらないと思いますけど。

鵜川 そこなんですよね。さっきも言ったとおり、僕の音楽関係の知り合いはメタルをやってる人が多いんですけど、僕自身はそれほどメタルに食指が動かないんですよ。メタルのサブジャンル、例えばプログレメタルとかジェントとか、そういうややこしいやつは好きなんですけど。そんなこともあって、『アンヴィル!』についても、「まあいいか」と放置してしまっていました。ごめんなさい、見ます(笑)。

細井 ぜひぜひ! この映画は2005年から2年間の彼らのドキュメンタリーなんですが、1984年の西武球場での「スーパー・ロック・フェスティバル」の映像から始まります。このイヴェントの出演者はボン・ジョヴィ、ホワイトスネイク、スコーピオンズにマイケル・シェンカー・グループという、錚々たるメンツです。で、時間は現在へ飛び、メンバーが何をしているかというと、給食センターや建築現場で働く傍らバンドをやっているという。この落差にまずは驚きますね。

鵜川 それは、メタルファン以上に、バンドマンの心に刺さりそうですね。特に、仕事しながらバンドを続けている人は、自分の人生を重ねてしまう気がします。
 結果的に、この映画をきっかけにアンヴィルは再ブレイク(?)を果たしたようですが、その辺りも、多くの人が自分の夢をアンヴィルに重ねた結果であるような気がします。そういう意味でも『夢を諦めきれない男たち』という副題は、鑑賞者をも巻き込むいいフレーズだったのではないか、と感じますね。

細井 確かに。「夢を諦めない男たち」だと真っすぐな感じがしますが、「諦めきれない男たち」だと未練が感じられる。負けって言われてるんだけど認めない、みたいな。
 アンヴィルのオリジナル・メンバーは2人だけなんですけど(他はサポート・メンバーが担当してます)、ひとりはフロントマンのリップス。この人のくじけなさがほとんどビョーキのレベルで、どんな酷い目に遭っても「いい経験をした」とか「収穫はあった」とか言ってる。まあそう思わないと先に進めないのかもしれないけど(笑)。もう一人のメンバー、ドラムのロブはリップスとは真逆で縁の下の力持ちというか、職人気質なタイプ。この人はリップスの幼なじみなんですが、何十年も一緒にやってきて、もう悟りの境地に達したんだろうなっていうのが言動から伝わってくるんですよ(笑)。
 バンドマンに限らず、若い頃に夢や理想を抱いていたけど諦めてしまったとか、まだそれを捨てきれないみたいな人の琴線に響く部分があったから、『アンヴィル!』はこれだけ話題になったんでしょうね。
 細かい内容は実際に映画を観ていただきたいですが、最後は「逆転人生」みたいな展開が待ってます。

鵜川 なるほど。夢を叶えた末の美談というわけではもちろんなく、かといって「諦めきれない」だけの「男たち」を追ったというだけでもない、何かがあるんですね! 想像すれば想像するほど、熱い映画だということが分かってきました!
 気が付いたら、めっちゃ『アンヴィル!』で盛り上がってしまいましたが、僕からもアンサーソングを(笑)。『はじまりのうた BEGIN AGAIN』(2013年)です。

 これは、さっきまでの話とは全く逆で、がっつりサクセスストーリーなんですが、何がいいって、演奏シーンが最高なんです。ストーリーは、落ち目の音楽プロデューサーのダン(マーク・ラファロ)が、偶然ライブバーで見かけたグレタ(キーラ・ナイトレイ)の演奏に可能性を見出すところから始まります。やがて一緒にアルバムを作ることになるのですが、録音スタジオを使わずに、NYの街の様々な場所で演奏と録音を繰り返していきます。とにかく、その様子が楽しくって! ライブ演奏の気持ちよさ、新しい音楽が生まれる瞬間の幸せ、ゲリラで録音する共犯的な楽しさ――映画のあらゆる瞬間に、音楽の楽しさが詰まっていて、今すぐ曲を書いて、ギター一本持って町に繰り出したくなります!

細井 キーラ・ナイトレイが魅力的なシンガー・ソングライターの卵を演じていましたね。タイトル通り、傷ついたふたりが再生していく物語です。僕が印象的だったのは、ダンとグレタがお互いのプレイリストを一緒に聴きながら夜のニューヨークを歩くシーンです。スティーヴィー・ワンダーの「For Once In My Life」や映画『カサブランカ』(1942年)(この映画、アメリカ人は大好きですよね)の「As Time Goes By」が大きな役割を果たしていますよね。

 好きなものを知ることで相手の価値観や経験がわかり、心理的な距離が縮まる。それがとても良く表れているシーンだと思いました。

鵜川 いいシーンですよね。特に、iPhoneの使い方が絶妙だなと感じました。そのことで、リアリティとファンタジーが、絶妙のバランスで成立しているというか。中でも、ダンのこのセリフ、「音楽の魔法だ 平凡な風景が 意味のあるものに変わる 陳腐でつまらない景色が 美しく光り輝く真珠になる」というのは、とても示唆的な言葉だと思いました。
 プレイリスト時代の音楽の在り方というか、単にお気に入りの曲をリスト化するんじゃなくて、日常や生活に音楽で色彩を与えるような、音楽の捉え方――その傾向は、この映画が公開された2013年以降、ますます進行しているんじゃないかな、と思います。特に、サブスクの音楽配信サービスが2015年頃から一気に普及したことで、プレイリストの共有が容易になりました。そのことで、アーティスト単位でもアルバム単位でもない、シーンやシチュエーションベースで音楽を捉える感覚が、それまで以上に広まった感があります。街や日常の風景と音楽との融和を描いたこの映画は、そういう視点から捉えると、より一層素敵な作品に見えてきますね。

細井 そうですね。僕は中学校に入って初めてウォークマン(携帯用音楽プレイヤー)で好きな曲を聴いたとき、目の前の景色が色づく=「美しく光り輝く真珠になった」ような気持ちを味わいました。それを友人や恋人たちと分かち合えるというのは、技術の革新によって生まれた素晴らしい体験ですよね。ラストのグレタの決断も2013年という時代性を反映していますし。
 ただ『はじまりのうた』は、時が経っても変わらないものの大切さを説いているように僕には思えます。ちょうど「As Time Goes By」の歌詞のように。この曲のタイトルは「時の過ぎゆくままに」と訳されることが多いですが、意味としては「時が経っても変わらないものがある」という感じなんですよね。
 この映画の魅力は音楽を聴いたり作ったりするときのワクワクするような初期衝動が刻み込まれているところだと思いますが、それこそが時が経っても変わらないものではないでしょうか。

鵜川 そういった、多くの人に開かれた音楽の喜び、という視点からすると、全くの対極に位置付けられるのが『セッション』(2014年)でしょうか。これも、名作!

 物語は、ジャズの名門音楽学校シェイファー音楽院に入学したアンドリュー(マイルズ・テラー)と、鬼教師フレッチャー(J・K・シモンズ)の二人を中心に進んでいきます。フレッチャーの理想は、新たなチャーリー・パーカー=天才を生み出すこと。というのも、十代の頃のチャーリー・パーカーが、セッションでミスをしてシンバルを投げつけられ(この辺り、実際には事情が異なるそうですが)、そこから奮起して一年後に同じステージで最高のソロを聞かせた、という逸話に倣って、学生たちに「シンバル」=罵声と罵倒を浴びせかけているようなのです。
 血のにじむ、というか血のほとばしる努力、狂気としか思えないようなストイックな練習によって、フレッチャーのバンドの主奏者の座を狙うアンドリューの姿は、鬼気迫るという言葉がかわいく思えるほど。その末にたどり着くのがラスト9分、圧巻のライブシーンです。物語的な展開もあいまって(視聴前にネットなどで確認しないように!)、本当にすさまじいです!

細井 そうですね。たぶんこのシーンを形容する際に「鬼気迫る」「圧巻の」という言葉を使わない人はいないんじゃないかという感じです(笑)。J・K・シモンズの怪演も光りますし、監督のデイミアン・チャゼル自身によるドラマティックな脚本による展開の妙も見事です。
 ただ、僕自身の意見を言わせてもらうと、イマイチ乗り切れないというのが正直なところなんですよね。それはこの映画の「音楽=ジャズ」の描き方についてです。とにかく徹底的に練習を重ねることによってのみ一流のミュージシャンになれるという価値観がこの作品を支配している気がして、学生たちが卒業後はとりあえず独り立ちしてやっていくんじゃないのかなと思うと、彼らの音楽的な素養やセンスといった要素はどうなっているんだろう? とちょっと心配になります。
 もう一つ、今の話とも絡むんですが、鵜川さんがさっき名前を挙げたチャーリー・パーカーは、ジャズの革命児として知られる伝説的なミュージシャンです。彼が活躍した1940年代当時としては驚異的なテクニックを持っていたのは事実ですが、ジャズという音楽がアカデミックな音楽にはなっていない時代のミュージシャンだったことも重要だと思うんですね。要は人間的な部分も含めてかなり(「すごく」というのが正しいかな・笑)デタラメだったということです。そのあたりに僕は違和感を感じてしまったんですよね。フレッチャー教授には「そんなゴタクを並べてる暇があったら、少しは正しい日本語を使えるように勉強してこい!」と言われそうですが(笑)。

鵜川 結局、フレッチャーはコンプレックスのかたまりだったのではないでしょうか。〈チャーリー・パーカー神話〉に囚われているところにも、それが表れているのかな、と。
 作中、気になったのが、フレッチャーがアンドリューの家庭環境を聞くシーンです。ここでは、両親の仕事や、音楽的な背景を尋ねているわけですが、これは血や素質にまつわる話です。もちろん、ここにはアンドリュー自身のコンプレックスも見えるわけですが(血を流しながらの練習には、自らの血の克服を見て取ることもできるかと)、同時にフレッチャーの執着も表れている気がします。
 フレッチャーはとにかくテンポにこだわる人物です。一方で、アンドリューの練習風景には、ぶっちゃけ、全くグルーヴが感じられない(笑)。フレッチャーが求めているのは、突き詰めて言えばジャズのグルーヴであり、それがテンポの向こうに立ち現れると思ってしまっているところが、フレッチャーの限界なのかな、と。そして、それを突き破ってグルーヴを掴むのがラストのライブシーンではないか、と。
 どうでしょう? ジャズ素人の僕の見立ては(苦笑)。

細井 たぶん、こういう言及は多いのではないかなと思いますが、今話が出た血のメタファーと物語展開が示しているのは、いわゆるフロイト的な〈父殺し〉の構図ですよね。
 と同時に、フレッチャーがどこかで自己否定=救済を求めていたという解釈はアリだと思います。ラストで彼が浮かべる表情にそういったニュアンスを読み取ることも可能だと思いますし。ジャズという音楽がもともと持っていたデタラメさと対極にあるのがフレッチャーの軍隊=規律的な音楽だとすると、アンドリューはその血を受け継ぎつつジャズの神髄であるグルーヴを手に入れて〈父殺し〉を果たす、というストーリーになるのかな。
 テンポというのはあらかじめ設定されている、あるいは指揮者によって与えられるものですが、グルーヴは自分(たち)で叩き出すものです。フレッチャーは役割上、テンポは与えられてもグルーヴを生むことはできない。ここでもアンドリューの受動から能動へ、という移行が見て取れますね。とはいえ、フレッチャーの呪いは最終的にアンドリューをも取り込んでしまうわけですが。うーむ。

鵜川 そう考えると、このラストシーンは、迫力満点のライブのかっこよさだけでなく、共犯関係の成立した男二人のおぞましさという、二つの極限が表現されていたと見ることができるかもしれませんね。いやほんと、最後のライブがかっこいいから騙されそうになりますが、ストーリーだけ見たら、完全にフィルム・ノワールとかサイコ・サスペンスですもん。フレッチャ-を演じたJ・K・シモンズの表情の力も大きいです。こんなに怖い笑顔は、なかなか作れませんって!

細井 これができるのはジャック・ニコルソンくらいですかね(笑)。

 ともあれ、『セッション』を忘れがたい作品にしている要素のひとつが最後のライヴ・シーンであることは異論のないところだと思います。他の音楽映画にも素晴らしいライヴ・シーンがありますが、クイーン〜フレディ・マーキュリーの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』もそうですね。

 やはり物語の最終部、「ライヴ・エイド」のシーンにはフレディ役のレミ・マレックの熱演もあって心を揺さぶられてしまいます。

鵜川 実は僕、『ボヘミアン・ラプソディ』を映画館で見てないんですよね。見に行った知り合い多数から、リピートしまくってるという話まで聞いていたのに、タイミングを逸してしまって。家で見て「ああこれは映画館で見るべきだった」と後悔しました。
 中でも「ライヴ・エイド」の一曲目、「ボヘミアン・ラプソディ」の(初めの部分の)歌詞がこんなにも胸を打つものだと感じたのは初めてのことで、これはやはり物語の力だなと。僕は普段、歌詞をフィクショナルなもの、あるいはポエティックなものと考えているので、作者や歌い手と結び付けて捉えたりはしないのですが。フレディの人生の物語に触れてしまうと、一つひとつの言葉が、練り上げられたセリフにしか聞こえない。最後を飾る「伝説のチャンピオン(We Are The Champions)」まで来ると、映画=フレディの人生が完全に二重写しになっていて、めっちゃ震えました。

細井 人物の心理を曲に乗せて歌うというのはミュージカルの手法ですが、ここではフレディ自身の物語と楽曲の歌詞が重なりあうという私小説的な構造になってますね。
 映画というアート・フォームを考えたとき、音楽というのは切っても切り離せないものなんだと思います。これはサイレントからトーキーへ、という映画の歴史をひもといてみるとよくわかりますよね。今回はいわゆる「音楽映画」を取り上げていますが、そうでない作品でも曲が独立して有名になっているもの(「スター・ウォーズ」のダース・ヴェイダーのテーマとか)や、劇伴曲が大きな効果を上げていると感じさせるものはとても多いです。その意味で「あらゆる映画は音楽映画である」と言うこともできるのかもしれませんね。

鵜川 おっと、これは締めに掛かっていますね! その前に、最後に一つ紹介させてください。『サウンド・オブ・ノイズ』(2010年)です。これ、言葉でいくら説明しても、何言ってんだかって感じになると思うので、予告編をぜひ見てください!

 監督のオラ・シモンソンとヨハネス・シェルネ・ニルソンは、この映画の前に短編「アパートの一室、6人のドラマー(Music for One Apartment and Six Drummers)」を製作しており、2001年のカンヌ国際映画祭でも話題になりました。

 何も考えずに、そのアイディアの面白さと、音楽自体のノリに身を委ねるもよし、音楽が見せてくれる可能性の広さに驚くもよし。音楽そのものがプロットに深く食い込んでいるという点でも、秀逸だと思います。

細井 音楽って、一般的には楽器やヴォーカルによって生み出される調性の取れたものと思われているじゃないですか。でも実際にはピアノなりギターを鳴らすとき、手や指で触れる際にノイズは発生していて、それも音楽の一要素になっている。また、リズムと音階(およびハーモニー)というのがざっくりした音楽の要素だとすると、人の会話や文章、街の喧騒にもリズムはあるんですよね。そういう視点をベースに、ユーモラスかつシュールに表現している作品のようですね。最初に僕が『アンヴィル!』を紹介して、最後に鵜川さんが『サウンド・オブ・ノイズ』を紹介する。どちらも「革エデュ」的オススメです! ということでキレイにまとまったのではないでしょうか(笑)。

鵜川 そうですね! 他にもまだまだ紹介し足りない、話し足りない部分はありますが、それはまたの機会に取っておきましょう! それではまたー。

細井 正之(ほそい まさゆき・国語科)
鵜川 龍史(うかわ りゅうじ・国語科/小説家)

Photo by Yvette de Wit on Unsplash

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