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恋と文学のクロスロード(『ストーナー』レビュー)

 ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』は、二重の意味で〈文学の悦び〉を纏うことができた稀有にして幸福な書物だ。すなわち『ストーナー』は、優れた文学作品が読者に与えてくれる悦びを、主人公ストーナーの視点を通して描いた作品というだけでなく、同時にそれ自体が読者に文学の悦びをもたらす作品なのだ。
 前者の条件を備えた作品は星の数ほどあるが、同時に後者の性質を併せ持つことができた作品は稀だ。文学史をひもといてみれば、最初の近代文学(近代小説)とされる『ドン・キホーテ』(1605年前篇/1615年後編)に象徴されるように、近代以降の小説は先行する時代の文学作品に対する批評/パロディとして発展してきた。その意味で他の文学作品への批判的な意識は、およそ近代文学と呼びうるテクストにおいては自明のものとなっている。『ストーナー』において注目すべきは、それが〈恋〉と呼ぶ以外ないあらわれかたをしていることだ。

 アメリカ・ミズーリ州の貧しい農家の子供として生まれたウィリアム・ストーナーは、19歳のとき、新設されたミズーリ大学で農学を学ぶことを農事顧問から提案される。ただでさえ貧しい実家から、自分という働き手が減ることの意味を痛いほど知っているストーナーは葛藤するが、やがて父親の一言で大学へ進学することを決心する。入学後、友達も恋人もつくらず勤勉に農学の学習に励むストーナーだったが、大学2年次のある日、何の気なく受講した一般教養科目の「英文学概論」で、彼は運命的な出会いをする。
 講義のなかでアーチャー・スローン教授(学生たちから恐れられている偏屈学者)に指名されたストーナーは、シェイクスピアのソネットについて意見を求められる。スローンはシェイクスピアの詩を朗読した後でストーナーにこう問いかける。

 ――シェイクスピア氏が三百年の時を越えて、きみに語りかけているのだよ、ストーナー君。聞こえるかね? 氏はきみになんと言っているかね、ストーナー君? 氏のソネットは何を意味するのだろう?

 問いかけに対しストーナーは「これが意味するのは――」と口にするが、あとに言葉が続かない。このとき、彼は初めて言葉によって表現されながら、言葉では汲みつくすことのできない「何か」と出会ったのだ。この出会いがきっかとなって、ストーナーは独断で大学での専攻を農学から英文学に切り替える。両親を裏切ってしまったという後ろめたさを抱え込みながら――。

 月日が流れ、卒業を目前に控えたある日、ストーナーはスローンの研究室に呼び出される。卒業後の進路について聞かれて、何も決まってはいないが少なくとも農場に戻るつもりはない、と答えるストーナーに、スローンは大学に残って英文学の研究を続けることを提案する。戸惑うストーナーにスローンは「きみはまだ自分のことがわかっていないのか」とため息をつきながらこう呟く。

――恋だよ、ストーナー君。きみは恋をしているのだよ。単純な話だ。

 この小説のなかでストーナーは様々な〈恋〉のかたちを学んでいく。そうして、彼のその道ゆきがそのまま『ストーナー』という小説をかたちづくっていく。文学に〈恋〉するストーナーの人生は、数多の読者を魅了してやまない。
 もしかしたら、『ストーナー』は二重の意味で「恋愛小説」と呼ぶべき作品なのかもしれない。

小峰 隆広(こみね たかひろ・国語科)

Photo by Oliver Roos on Unsplash

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