鼻ったれ美徳へ詩人を問うー篠崎フクシ『緋のうつわ』の窓外に立って
こういう言い方で失礼すれば、まず詩を読む場合、ざっと「詩人」と「日曜詩人」とに分けてしまうことが身に沁みてしまったために「日曜詩人」という一群は熟読の範囲にはいらなくなってしまった。これはわたしの読書の放棄であり、「日曜詩人」の意味合いについてはよくかんがえてこなかったことによる逃げた姿勢だからよく反省しなくてはならない。ある一定の理念に取り巻かれた詩人群がもたれあって評価し合う日曜日の世界へ別段なにかいちゃもんをつける必要などだれにもありはしないからだ。しかしわたしの元へ届いてしまったのだから仕方ないと思って頂きたい。「日曜詩人」について少しかんがえてみる気になったのだ。
当然、「日曜詩人」という呼び方は罵倒した姿勢である。わたしの生まれるもっと前に「俗流」という言葉が飛び交ったのに似ているかも知れない。時代の影響もあり「日曜詩人」は「俗流」よりも本質的な判別がむずかしい。なぜならば「詩人」であっても〈しまった!〉というような俗流詩を書いて提出してしまうことがあるからだ。疲労や嫌気や羞恥などと密接に結びつくために作品がどうしようもなく日曜日のたわごとに下落してしまう。だからわたしたちは俗流詩の経脈のなかに詩人の世俗への格闘の質を測ってみたり、心理の大衆化の幅を記録したりすることで「日曜詩人」からすくいあげて来た。そのなかでも頭からしっぽの先まで「日曜詩人」であるほかない一群はそもそも「詩人」の前提がちがっているのかも知れない。あるいは不必要なイデオロギーで対自的な価値を潰してしまっているのかも知れない。たとえば世界が平和でありますようにと願うことなどまともな大人ならばだれだってしている。もんだいはそのだれだってしているところで書くことができずに、じぶんだけがそう祈っている(そうだろうおまえら)という勘違いか、あるいはあのひとが祈っているように習って祈っている(どうでしょうあなた様)といった具合に書かれていることが形骸的に詩を認めている。年齢の過程に並行して学校の先生から徐々に姑息になって自立してゆく過程を経たわたしたちならば、あえて教えてあげる必要もない経験済みのことであるが、どうやら「日曜詩人」は未成熟らしい。ナルシズムを詩の価値にもできなければ、他人を風刺することすらままならず、形骸化した言葉を心底信じ切っている。煽るならば徹底的にやってみる度胸が必要だ。
弱い者の見方をしていれば倫理的な完結を詩に得られるのか、そうした馬鹿げた疑問を読者に抱かせねばならない詩集はなんら反省的な価値をもっていない。どうか教えてほしいのだが、
という戦中を日本の占領された上海ですごし帰還したこの詩人の逃避についての判決を。「日曜詩人」を歴史化してしまえば、こういう逃避の意識へ詩を着陸させることが詩人のゆいつ生き延びることができる方法であったのかもしれない。つまりそれは詩や思想がある判決のところまで進んでしまった場合、おれはそれ以上は知らないよ、と逃避してしまうのだ。
『緋のうつわ』を通読してわたしは「日曜詩人」が「詩人」のコートを羽織っているという印象を篠崎フクシへあたえた。こういう印象の詩人がいちばん鼻につく。ただこれは非常に形式的なもんだいに過ぎない。内的な実感を詩語へ仮託できない原因への反省を作者が放棄していたり、あるいは「詩人」という形象そのものを低く見積もったことでその上に立っていると誤解していたりするためである。端的な表現上の表れは「パルチザン」や「ジグムント」というように未消化の知識として記されている。語感の外的な実感だけに支えられた詩であって決して詩語を内的に手繰った詩ではない。知的な興奮もない。また昔の詩集の内容には迫らないが、わたしも書いている同人誌の女統領は篠崎の処女詩集の帯に「コトバを全体的な〈喩〉に変える装置を作動させたか」と書いているが、なんの意味もなさないことを言っては誤解が生まれるだけだ。この詩人には「全体的な〈喩〉」といったものは感じられない。むしろ言葉はそのままの囲いで存在していて、その意味内容も直接の理解へ結んでいる。正しいことを言えばそのままの意味で正しいことだと受けとって差し支えない。「全体的な〈喩〉」を作品にするためには暗喩が全体として超えられているか、あるいは詩人が現代へ透過する性質を備えているか、であろう。女統領はたぶん「全体的な〈喩〉」といって作品の形式が読者へ迫る理解の不在性から逃げたように思われ、他人の内容をじぶんの思想へ曲解した。そしてまた余計なことを察すれば、現実として篠崎も女統領の選文へ迎合していったのであろう。ひとつ印象へ付け加えることができた。それは他人に「詩人」のコートをもらったか、であろうか。
一番退屈な作品を引用してみよう。
わたしは学校の教科書や介護施設のパンフレットを閉じるようにこの詩集を閉じねばならないのか。わたしはこの線の詩は作者へ責任を問うことができるように思う。力量とか勉強不足とかの鬱陶しいものを省けば、作者へ責任を問えない理由はだいたいが現在に負っていることになるのだが、こうした詩篇は現在を喩的な理由にしては成り立っていない。甘ったれた人気取りとスカした格好付け癖のほかに過失が見当たらないからだ。いくら日曜日のたわごとであっても読者をつくった以上、腹をくくって立っていてもらわなくては困るのだ。
この「ウェルフェア」という作品はとんでもない偽物に違いない。あるいはメディアにもてはやされた皇族の娘の見過ぎである。ほとんど詩のもんだいではないが、なにが問題なのかを書いておこう。
作者は視覚障碍者の疑似体験かなにかをやったところから感銘を受けてこの作品をつくったのかもしれない。そうしたら点字も手話もできない自分が恥ずかしくなった。駅やなんかでもみくちゃにされている視覚障碍者のたいへんさへ想像力がはたらくと、疑いは焦り切った現代社会へまで直通した。そして現代社会や自分の恥部の隙間からそれら障碍者が愛しく見えはじめ、ヒューマンライツやウェルフェアという言葉へ着地した。そこで注目すべきは、「善悪や~」の部分である。この詩人の危うさは「具体的なひとの生き死に」をまったく知りもしないのに「善悪や悪意ともちがう」ヒューマンライツというウルトラな観念へ飛躍してゆくところにある。この倫理観は人権の下に具体的な人間の意識が統治されてよいという結論を引きこむ余裕にあふれすぎている。理念など具体的な善悪のあとにしか出てこないことが分かっていないのだ。たとえばこういう倫理観はどこかで悪人は裁かれてもしかたがないというような結果へ結びつくに決まっている。なぜならば具体的な人間は目暗をまえにしてじぶんが〈しまった!〉と思う心の動きがこれほどイデオロギーと足並みを揃えるとは思えないからだ。もしこれが真に詩人の倫理に紐づけられているとすればわたしはお手上げになってしまう。要するに人権と死刑を抱えた国家の腐り切ったイデオロギーが詩人の内部まで染み切ってしまっているのだ。
付記
なぜ池田克己の詩を引いたのかはわたしの感覚的な根拠でしかない。たぶんこの根拠は篠崎フクシを詩史上に位置付ける場合、合致したものであると思う。低俗な倫理に群がった共同体の傷のなめ合いに参加はできない、というわたしの深い予感でもある。
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