北村岳人

1997年東京生まれ。詩人。詩集に『逆立』(港の人)、『わたしという異邦へ』(幻戯書房…

北村岳人

1997年東京生まれ。詩人。詩集に『逆立』(港の人)、『わたしという異邦へ』(幻戯書房)がある。kitamura.gakuto@gmail.com *頂いた書物や関心のものを中心に少しづつ書いてゆきます。

最近の記事

鼻ったれ美徳へ詩人を問うー篠崎フクシ『緋のうつわ』の窓外に立って

 こういう言い方で失礼すれば、まず詩を読む場合、ざっと「詩人」と「日曜詩人」とに分けてしまうことが身に沁みてしまったために「日曜詩人」という一群は熟読の範囲にはいらなくなってしまった。これはわたしの読書の放棄であり、「日曜詩人」の意味合いについてはよくかんがえてこなかったことによる逃げた姿勢だからよく反省しなくてはならない。ある一定の理念に取り巻かれた詩人群がもたれあって評価し合う日曜日の世界へ別段なにかいちゃもんをつける必要などだれにもありはしないからだ。しかしわたしの元へ

    • 佐峰存『雲の名前』(思潮社)の痒みについて

       ここで病名は比喩としての意味しかもたない。詩集『雲の名前』はアトピー性皮膚炎的な感覚が詩になっている。「私達は鼓動と痒みを所持していた」と序詩に書かれたとき、詩集の展開をわたしにそうした読みかたで追うことをゆるした。佐峰存という詩人が皮膚炎であろうがなかろうがあまり重要なことでない。個的な感覚が詩作品となってあらわれるのはひじょうに貴重なものであり、わたしはその限定された意味でこの詩集を興味深く拝読した。  花粉(作品「頬の季節」)や合成樹脂(作品「名刺」)といった物質への

      • 『自滅 尾崎渡作品集』(幻戯書房)に私小説を読む、あるいは

        *まえおき  『自滅』の作者は大人という自認ができあがっていないのにも関わらず、子供だといわれてしまっては困るというような年齢に差し掛かっているだろうから、作品は立派でなくてはならないと誇らしげにくたばりそうになっている。わたしはまだ大人などと思ったこともなくただただ子供として這って歩いてるような年齢なので、作品の立派さにはとても文句をつけることはできない。その死に損ないの美学になどなおさらだ。年齢ほど尊重しなくてはならない経験の蓄積はなく、また年齢ほど当てにならないものも

        • ニシダ『不器用で』を手にとる

           ラランド・ニシダの処女小説集が刊行されたことを知ったのは、わたしがかれに不穏な興味をもちはじめてしばらくたってからであった。ラランド自体、不穏な興味をもったコンビである。なぜならばかれらは既成の関係からはずれ、単独の芸能として身を売っている現在の潮流の渦中の人物だからである。かれらが抱えているのは、演芸という大衆性の否定と声望の単独な集中への執着の矛盾である。大衆演芸という万人を対象にした表現をある特定の人気へ集中させることでじぶんたちが生き残るというのは一見矛盾をもたない

        鼻ったれ美徳へ詩人を問うー篠崎フクシ『緋のうつわ』の窓外に立って

          村松仁淀『ホール・ニュー・ワールド』について

                          *  わたしには以前からわからないことがある。それはどこか遠い国で起こっているできごとへあたかも自分の身近なところでおこっているかのようにお節介する意識はどうした根拠にもとづいてそのひとのうちに落ち着いていられるのだろうか、ということだ。たとえをだすほどでもないが、思想のひとつの切れ目のように働いているものをいえばドイツで引き起こされた意図的な絶滅が《アウシュビッツ》としてわたしたちの住む日本で一級の課題となっているように。しかし、こうしたこ

          村松仁淀『ホール・ニュー・ワールド』について