佐峰存『雲の名前』(思潮社)の痒みについて
ここで病名は比喩としての意味しかもたない。詩集『雲の名前』はアトピー性皮膚炎的な感覚が詩になっている。「私達は鼓動と痒みを所持していた」と序詩に書かれたとき、詩集の展開をわたしにそうした読みかたで追うことをゆるした。佐峰存という詩人が皮膚炎であろうがなかろうがあまり重要なことでない。個的な感覚が詩作品となってあらわれるのはひじょうに貴重なものであり、わたしはその限定された意味でこの詩集を興味深く拝読した。
花粉(作品「頬の季節」)や合成樹脂(作品「名刺」)といった物質への意識は不衛生の象徴ではなくただ過剰さのそれである。
物質への不安は過剰さへの恐怖をかかえている。物質のそれぞれがどうした反応をもって身体に影響をあたえるのか、いまあらわれている反応はそのいずれかの物質に起因する現象であるのか、これはどこまでいっても確定されないことを恐怖としてわたしたちを不安にさせる。因果の不明瞭な世界へ過剰に反応しては新しい不安を発見するのはいつでも意識である。そこで物質は他人の声であってもちがわない。それらは吸い込まれ、体内に蓄積されて影響をもつ。他人がしゃべっているのに対して、鼻で吸気するのを拒んでいても声ははいって来る。作品「名刺」からうかがえるようにこの詩人には物質の関係(化学)や他人との関係(力学)が痒みとして受感されているのである。
指はみずからの皮膚に触れると身体の感覚器から離れてひとつの観念器官となる。これは自意識による対自的な嫌悪を示しているものもあれば、対他的な評価の勘違いであらわれることもある。じぶんの器官が身体への接触するところでほんとうにまともな調和をもって語ることはむずかしいというのはだれにでも経験のあるところだが、まさにそのことによって観念器官は身体にあらゆるもんだいをつくりだす。この詩人は通勤電車で他人の観念器官を発見している。吊革をにぎる他人の指がじぶんの目線に位置している。だが他人はひとりではあらわれないところにこの詩人の妄想が発見される。それは突きつめてゆけば、じぶんの身体への違和感が他人たちへ伝播してゆく、あるいは反対に他人らからじぶんの違和を指さされるといった被害の意識に苛まれることになる。じぶん自身への嫌悪はたいがいがだれかに知られることを土台としているからだ。しかしこの詩人は被害の意識を若干残しはするが、そこへ真っ向からぶつかるといった過程はすでにやりすごされていると思われる。ただ身体的な嫌悪が詩として成立しているだけではない精神の余裕が感じられるのはそのためだ。詩人の年齢を知らないが、四十代を迎えているのかもしれない。だが逆に身体的な嫌悪、いいかえれば因果の不明瞭な世界への意識や身体の過剰な反応は経過とともに衰えてしまっているといってもあたっているだろう。
痒みは痛みとおなじようにそれを差しおいてはいられない生理反応のひとつであるが、この詩人の痒みにかんする特徴を認めるのであれば、痒みが実存的な反応で取りついていることにある。皮膚や臓器が痛いと感じることができるのに対して通常臓器が痒いとはゆかないはずなのだが、この詩人にはそれがあり得るのであって、心臓が動く意識をもった有機体であるじぶんが痒いという存在自体の感受性までに引きあがっている。これは痒みへの意識か、痒みという生理現象かに慢性的に付き合わされる存在のもんだいである。
この詩集やこの詩人を交感神経系の興奮が普通の生活となったわたしたちの情況だというのにはまだ浅すぎるような気がする。いやでも見えて来る詩人の思想性がそれに歯止めをかけているのだとも思う。こうした歯止めを徹底的にやり込める詩ができて来るにはまだ世代がかかりそうな予感がする。そうした時代とじぶんの感覚の紡ぎのところをこの詩人は成功したり、ときには逃げたりしているのだと「雲」ということばから感じた。時代に対する詩史的な意味合いではちょうどいまの若い世代と戦後詩の影響を受けた世代とのあいだに位置する立場として双方に若干の反発をもって暮らしている印象だった。
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