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『自滅 尾崎渡作品集』(幻戯書房)に私小説を読む、あるいは

*まえおき

 『自滅』の作者は大人という自認ができあがっていないのにも関わらず、子供だといわれてしまっては困るというような年齢に差し掛かっているだろうから、作品は立派でなくてはならないと誇らしげにくたばりそうになっている。わたしはまだ大人などと思ったこともなくただただ子供として這って歩いてるような年齢なので、作品の立派さにはとても文句をつけることはできない。その死に損ないの美学になどなおさらだ。年齢ほど尊重しなくてはならない経験の蓄積はなく、また年齢ほど当てにならないものもない。たぶん作者は私も青春を忘れていない大人の出来損ないだというだろうが、おなじ文学という路線を進むわたしとしてはそれでは困ってしまう。なぜならば、私小説というものに復権の価値をちょこちょこ見出してゆくためには、それらの生活がわたしたちが思い描いたり通過して来たものよりもはるかに健康であったり、貴高かったり、あるいは不健全であったり、愚劣であってもらわなくてはだめだからだ。わたしたちは一切普遍的な人間の一生など作品へ期待してはいない(ような姿勢をとる)。作品への期待が作者のそれぞれの内的なもんだいへ引っ込んでしまったがために、私小説の意味合いも昔とはちがったものなのだろう。たとえばわたしの通過している生活以上に作者がなにか生活の困難を見せてくれることはないし、思想としてもわたしを魅了するものを教えてくれはしない。面白くもかんがえさせられもしないものへどういった価値を見出してゆくのか、これが今日的な正直な私小説のもんだいなのかもしれない。こういう大袈裟な言い方をしたら怒られてしまうかもしれないが柄谷行人のような偉い思想家が『日本近代文学の起源』のなかで私小説を今やれるもんならやってみろ、おれを驚かしてみろといったこと書いていたが、その失望や挑発はわたしたちも柄谷へ思っていることである。つまり余計なお世話だぜ、そう言い返したくなるのが常なのだ。柄谷はまったく顚倒してしまった図式を西洋から導き出したにすぎなかった。私小説はたえずじぶん自身をもんだいにしているのであって、それが小説を克服するかどうか、あるいは私小説として小説をはんたいから合致してゆく構造を取らざるをえない沼地などどうでもよいことだからである。わたしたちは私小説を作者の表現のすぐれたひとつの領域としてかんがえるのであって、そこに「物語」をみているわけではない。
 ところで現在的なもんだいはもっと深刻である。生活への実感のなさから出発して、だれかとの共存感をどこかに見出しながら息継ぎするように生きていることが、充足と不安とを供給している。これを生活への実感のなさは充足である、不安である、と二手に言い換えたとしてもちがわないというところが深刻な理由になっている。作者の生活や作品として作り出された大袈裟なものは興味も思想ももたらしはしないのだが、それらはじゅうぶんに有力なものとしてわたしたちと共存できるという文化線がある。それは作者がわたしたちとともに実感なき安定を生きているからに過ぎないが、不断の充足と不安を供給し合うというところで馴れあい作者の独立心を潰している。つまり現在は隣に刃物を持った人間が立っていても気がつかない、そしてまたその人間が他人を刺すのかじぶんを刺すのか、なにもしないのか、識別することがまったく不能になってしまったということだ。私小説はもはやなにものも根本的なもんだいを扱いえない。それらが有するちがいは人間のただ固体的なちがい、生まれた場所や身体の不遇といった必然性に集約されて、ただ普遍的な生活する世界をつかまえることはできない。
 どれだけ特殊な人間的性格を有している人物が創作して完成させた作品だとしても、わたしはそれを立派な作品だと認めることはできない。通念上わたしたちの普通の生活とちがったものをやや過剰に作り込んでくれる作品は私小説として評価に値することはあり得るが、しかしそれはただわたしたちの一般的な生活にそぐわないだけである。むしろそれらが提出する過剰な生活個域がわたしたちの普遍的な生活域に接触したり捨象されたりしていなければ、作品はただ突飛なものとしてわたしたちの生活のなかへ脱落する。異常な性格をただ尊ぶことははんたいの意味合いで差別になっている。この作者が尊重してやまない葛西善蔵は次のように書いている。いや、太宰治であった。

 ……私は一生、路傍の辻音楽史で終るのかも知れぬ。馬鹿な、頑迷のこの音楽を、聞きたい人だけは聞くがよい。芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する
「善蔵を思ふ」

「善蔵を思ふ」太宰治全集、筑摩全集類聚

 太宰は突飛な生活や他人から気違いと思われかねないような人間の書くものがどうしてそのままわたしたちの平生な生活のなかへ脱落してゆくのかを知っていた。そして読者が私小説のうえにあらわれたときにそれらの脱落を通してわたしたちのほうへなにかが引き返してくることもよく知っていたのである。
 それでも私小説という領野に果敢である意志へ付き添うのであれば、『自滅』にあっても作者の個的な資質をたぐってみるほかない。「自滅だ——斯う彼も絶望して自分に云った。」(葛西善蔵「子をつれて」)。

*『自滅』

 安息した家庭という理想を三十を過ぎた女をまえにして断念した由来はじぶんの卑怯さ、感傷さ、その運命からであった、と限定してみたとき女はいまだにじぶんを好きでいてくれるのだが、無責任は生理的な死という観念をつくりだして逃亡してしまった。じぶんという性質の運命は女に切り捨てられるという格好をとって幸せを守ってやるようなことにはなりえず、ゆくところただ死んでしまうほかないだろうと取りつくろう。かれのつくりだしている観念の虚偽は私小説としてあらわれ、その内容を不自然な自己卑下が埋めている。「悪因悪果」ということばがあるとすれば、それは無責任を実定化させる手続きであり、善悪はいつも空のほうへ逸されてしまう。この自己卑下が奇形であるのは観念の虚偽であるからにほかならない。じぶんが思っていることと「本当のこと」とのあいだにある世間の正しさが、観念を虚偽にする原因でもあるし、またじぶんの正しさが負けてでているのにもかかわらず他人を論駁せねばならないこともまた原因であった。作者はじぶんを弱者呼ばわりし、弱者のほんとうを掴み損ねる観念によって世の中をやり過ごしてゆかねばならない。
 生活は金で大半ができあがっていて貧乏はたちまち健康を直撃する。それも仕事につきまとう他人たちやじぶんの力能が満足に駆動しないならばなおさらであった。

……——何んの言い訳でもないが、自分としても、そこへ至るまでには随分と奔走したものだ。彫金師の見習いなるものを確か四五件くらい当って、それが駄目で、それからポスターの制作会社、吉祥寺の印刷屋、神保町の古書店、高円寺の古着屋、中野のレコード屋、三鷹の工場、八王子の工場、どんな馬鹿でも受かると耳にした某社。が、どれもこれも、悉く駄目だった! 面接の返事待ちが一週間、十日、駄目なら駄目で、何故そのときに言ってくれないの! 何か私の行く道は、抗うことの出来ない強い力に働かれて、進むほう進むほうが肉体労働へと押しやられているような気がしてならない。蟻地獄の罠に一匹の蟻——否が応でも、軈ては力尽きて、捕食されてしまうだろう無慈悲な運命である。

「自滅」『自滅 尾崎渡作品集』幻戯書房、2023年

 なぜ肉体労働が仕事の低級な位置にあるのかはだれでも知っている。賃金であったり、容姿であったり、成り立ちの歴史であったり、それらが複合して低級なイメージをつくりあげている。現存在的にはわたしたちも加わって他人たちがそのイメージを支えているといってもよい。しかし肉体労働がそのひとの高級な位置にあるのかはだれも知らない。大衆が仕事へ出てゆき帰って来るという順繰りに無為の価値をもたせるならば、肉体労働であろうがかれらが無意識につかんでいる高級さはあらゆるものに否定される必要を根っこからもっていないのだ。そこへ虚偽の観念は自己卑下という牙を剥いているのである。それも金のもんだいを差し置いてのことであった。

……喉元過ぎれば熱さを忘れるといったように、金への苦心がなくなった途端に、感謝の念よりもやはりこういった仕事自体に、こういった仕事をしている自分の足場に、ひどく嫌悪が増すばかりなのである。如何なる仕事であっても、誇らしく、真面目に、気丈夫に取組むことは大変素晴らしいことだ。これは人生の意義であると思う。そして、仕事は楽しくやらなきゃとよく耳にしたことも、全く本当のことだと思う。だが、彼らはこうした実情の背景にあるもの、そして何より自からの前途に無関心すぎる! 

「自滅」

 居酒屋で知り合った親方に良くしてもらい金は安定した。金の不都合を取り払われたあとに突き放してしまわねばならないのは仕事であり、仕事はじぶんの肉体労働への卑下で染色されていたためにじぶんの仕事そのものが非難されるべき貧窮さにあった。低級な仕事へ追いやられねばならないじぶんがどうしても嫌であった。つまりは肉体労働の低級さを突き放したのではなく、わかるはずもない高級さを突き放したのである。肉体労働者たちの前途への無関心がどうしても嫌悪されてならなかったのはじぶんの性という足場の不安定さとはなにも関係がないはずである。低級さを良く知るじぶんは低級さのなかに生きる無関心な労働者よりもちがった存在なのだと、低級さをつくっている背景の側に立たざるをえなかった。ひじょうに作者の存在はあいまいな倫理観を形成して、低級な仕事に従事するひとびとがあだかも低級なように、じぶんの高級さをまったく掴み損ねている。そこには正義もなにもありはしない。
 作者はその無責任感から他人の無様さがよく見えたようである。福島の大震災の翌日のことであった。(作者は震災を「摂理」と受け取ったかもしれない。それも人間が生物的な死をとげるような仕方に、自然のなし崩しを感じたのかもしれなかった。)

 そのあくる日の午後、私と幸葉はスーパーへ買出しに行ったのだが、棚の品物は殆んど無くなっていた。私達は埒もなく店内をうろつき廻って、目当てにしていた玉子もなく、仕方なしに六枚切りの食パンを一つばかし籠に入れて二人してレジの列に並んだのだが、その私たちの前には、私達が買えなかった玉子を十パックも籠に抱えた厭に肥えたババアが居て、如何に不安心からとは雖も、こういった非常の場合なのだから、そんな派手な強欲っぷりは視たくなかった。人の心からいっても、ひどく醜いじゃないか。こういっては何んだが、最悪自分は火事場泥棒でもするような人間です、っていってるようなもんじゃないか。人間の本当——が、人間に本当などと?

「自滅」

 このババアをわたしたちも追求してしまうことはできる。震災によって変質した人間の性が商品不足へあらわれ、なおかつこのひとりのババアに焦点が集中していった。ババアのいやしさやずるさは他人を寄せ付けず、まったく自分勝手であった。まさしく無様であった。だがババアの無様さはほんとうだろうか、とわたしたちは疑ってかかってしまうことができるが、作者は大衆のそうしたささいな品行のなさに苛立たずにはいられないのである。
 借り家が大家さんの相続の問題で売りに出されることになり、敷金の半分は返金されるという口約束をとりついだ。退居の際、大家さんはその口約束を忘れていていた。当てにしていた敷金の半分をどうにか受け取るために、女に口を開かせた(ここにはこの女に裏切られるのではないかという不安があるのだが)。そこで「今更、詐欺師、盗っ人、根性の腐った乞食野郎」と思われてもかまわないと思った。この卑下を若干くつがえす意識がどこでスーパーのババアと接触するのだろうか。まさしく自己卑下という虚偽の観念で出会っているのである。大家さんの厚意だと勝手に思い込み、実際はその口約束を忘れているくらいのものであるのだからじぶんのがめつさこそババアのいやしさがもっているものとおなじではないのか、無様ではないのか、という出会いしかありえない。作者の虚偽の観念は自己卑下を通じてひとつの思想へ寛解しているように思われる。作者の感受性とその背後に潜んでいる資質がなるべく表面上でしか他人と接触しないようにするために動かしたこころの働きがひとつの思想をつくりあげている。いいや、いい方を悪くすれば「でっちあげている」ということになる。それは「仕方ない! 仕方ない!……そうだ! 仕方がない外ないじゃないか、この移ろいの何もかもが!」(「行方」)というような葛西善蔵風のこころの声として示されている。自然の摂理、死の無差別さ、それらを人間は克服することができやしない、という思想は他人がとりまく関係をなし崩しにしてくれるというような元も子もない最終的な一点である。この思想のうえではじぶんも他人もひとしく平されてしまう。風景をながめているとだんだんと眼球に張りついた埃に焦点があってしまうような自然への意識は、風景の無意味なあり様の先にじぶんのそれをぼんやりと呼び込んでいる。憂鬱というものは作者にとって自然のなし崩しからじぶんの性と思われているものへとフェードアウトさせるものである。そうした思想がこの作家にとって自然であるだけにわたしたちは『自滅』のあとでどこかで大衆としてだれにだって悪態をつくことができるのである。他人は思い通りにもならなければ、きれいな存在でもない。わたしたちの意地汚さは他人の過度な非難に知らないうちにさらされているのだ。それがどうにだって赦されるのは自然に任されるほかないからであって、倫理はその自然から発生してきているからだ。
 ときどき作者は途端に黙り、祈るような真似をする。それが作者の無責任ではゆかない細い息のようなものだろう。

 方々で、自分の願うことは、各々の顔を思い浮かべて「彼等が健康で、元気で、幸福でありますように!」と念じて来たこれまでが、全て台無しにされたような感じだった。それも知らず知らずとは言ったところで、各々の顔を浮かべて——自から、彼等との縁を遠退かせてしまって居たような、そんな気がしてならなかった。…… 

「遠縁」


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