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ニシダ『不器用で』を手にとる

 ラランド・ニシダの処女小説集が刊行されたことを知ったのは、わたしがかれに不穏な興味をもちはじめてしばらくたってからであった。ラランド自体、不穏な興味をもったコンビである。なぜならばかれらは既成の関係からはずれ、単独の芸能として身を売っている現在の潮流の渦中の人物だからである。かれらが抱えているのは、演芸という大衆性の否定と声望の単独な集中への執着の矛盾である。大衆演芸という万人を対象にした表現をある特定の人気へ集中させることでじぶんたちが生き残るというのは一見矛盾をもたないようにみえるが、しかし、芸能が標榜するものは大衆からの声望であり、じぶんたちを個的な枠組みから一般性へひろげてゆくことである。つまり芸能とみずからのコンビの生存が矛盾し、いずれも身をそいだような印象で一定の人気へ表現を提供しているのである。ラランドにおいてはその矛盾がおおきくあらわれているように思われる。サーヤは芸能を背負い、ニシダは大衆芸能を否定する。サーヤの方角へコンビがかたむけば通俗な芸能として終わり、ニシダの方にかたむけば芸能から離脱する。こうした危機をどこかで感じながら表現しなくてはならないかれらはこの先どう転ぶかもわからない。魅力であるにはかわらない。
 導入として芥川谷崎論争を想起しても仕方がないが、ニシダの小説は文章と話のつじつまにはっきりとした意識があるところで谷崎に軍配があがるのだから面白くはない。確実で、定点的に齟齬なくはじめられる「書き出し」がもっともニシダの作品にとって重要な部分であるのにちがいない。「書き出し」からすでに作品が完結されてるといっても言い過ぎではないだろう。かれの作品は冒頭から情景を作りすぎてしまうのである。それ以上の感動は作品を進めていってもやっては来ない。しかしこの性質はどこかでニシダにぶつかっているもんだいである。わたしの興味はいつも作品の奥にある。

 わたしたちは日頃、疾患や家族家柄、学歴などだれかによる不遇な批評に脅かされている。病気か普通か、裕福か貧しいか、賢いかそうじゃないか。この二分がなにものにもならないことはだれでもよく知っている。しかし裕福であれば両親はまともで子供は出来がよい、びんぼうであれば両親は不幸で子供は不出来、というような原因と結果の粗末な批評をはっきりとじぶんから取り除くことはむずかしいということも嫌なほど知っている。それでいて他人をなじり、じぶんを卑下するのだ。これはどうだろうか。
 両親が裕福で子供が不出来。
 子供が幸福で両親が貧しい。
わたしたちはここに不遇な子供の自意識の乱れを読みとることができる。無頼派の「親が大事」「子が大事」といった思想はいつまでも終止符が打たれずに「子供」にとどまっている。つまりだれも二分の不遇な批評を「親」として引き受けてはいないからだ。子供が可能性であるならば、子供のまま親になることはどう理屈がつけられるのか。両親と子供との不均衡はいつだって子供に押しせまって来るものである。ところが「親」としてはもはや子供としての可能性をじぶんへ抱き続けることはできない。これに気がつかない、あるいはこれを拒否するためには子供をもたない以外にはないのだろう。
 
 小説集『不器用で』からニシダの〈コンプレックス〉を形成するいくつかを抜き出してみる。いくらか普遍化してもかまわないだろう。

●自意識

……僕は真顔のまま、二人に少し遅れてイェーイとだけ繰り返した。それ以外を口に出すことは許されないように思われた。(「遺影」)
……ずっと制服だったから、大学に入ってからは何を着て外に出れば良いの分からない。結局チノパンに無地のTシャツを着ている僕は、都会の中で名前のない人間になっていた。(「アクアリウム」)
……「うわ、かるーい」滝くんは言った。わたしに向けて言ったんじゃない、というふうに、虚空を見て汗のにじんだ真顔で言った。すぐにわたしと目があったから、きっとこの場が楽しくなると思って言ったのだと分かった。(「焼け石」)

『不器用で』KADOKAWA,2023年

 ニシダの自意識がどこか他人を避ける姿や他人のうごきをよく観察していてその結果が見え透いている姿としてやや冷徹にうつるのは、こうしたじぶんへの蔑みの虚構と事実との不安定な均衡によっている。友達が盛りあがっている場面でどこかじぶんへさみしさを抱えている、あるいは疎外感を自作している感覚はわたしたちにもなじみがあるものである。「僕は誰からも隔絶されている」という自意識は他人の暗黙の関係が見えすぎてしまうがためのものであるのだ。そのために他人の言動は滑稽にみえるのだし、またそれがじぶんへひっくり返ってくるために恥ずかしくも愚かにもみえる。
 こうした自意識と他人との境目がはっきりと出自を主張しはじめるのは家族しかありえない。

 ●家族

……ただ部屋の空間に「ただいま」とだけ言い捨てた。母は僕が帰ってきた時とは明らかに違う態度で、料理をしながら目線を動かすことなく声のトーンだけを取り繕い、おかえりと呟いた。ベランダの方を見ると手すりに腕を乗せて外を覗き込むような姿勢で携帯を耳に当てる父が見えた。(「遺影」)
……夕飯の支度の途中だったのかエプロンを着けたままだった。僕が小学五年生の頃、家庭科の授業で作ったエプロン。迷彩柄に英語の筆記体でプリントが入っている。せっかく作ってくれたからと言って母は大事そうに使い続けている。新品を買えば良いのに。古くて汚いエプロンで作るご飯は不味そうに思える。ベランダの方を見ると薄いレースのカーテンの奥に煙を吐く父が立っていた。(「遺影」)

『不器用で』

 家族のもんだいのほとんどを父親へ負わせていることがわかる。それがひとつ父親の役割だといえばそれまでだが、執拗に父親を少し遠くにある肖像のようにあつかっていることは隔絶されたという自意識をつくりだすのに一役買っているはずである。
家族は「人生の不当なハンディキャップ」として意識された。この意識はニシダの他人を測る方法までにせりあがったように思われる。両親の生活状況を子供が推しはかりながら育たねばならない状況は不幸であるのか、この点でニシダにも「知恵」がなかったことになる。経済の知恵ではなく、ただ生活の知恵がなかった。家族はお互いに分かり合ったような姿をしていて、じぶんだけははっきりと関係が見えているのだから辛いのだというのは原因を放棄した方法でしかない。いつしか家族を他人の視線で測量するという方法へかわっている。しかし「運がなかった。不幸なくじを引いてこの世に生まれた。」ことはじぶんだけから導かれたことではなく、他人たちが仕掛けてきたところもおおかった。じぶんの家が他人の世界へおき直される恐怖も加担したのである。作品に厳密になれば、相手を貧乏であることでいじめを行った僕がおなじほど貧乏であるという危機感へニシダの執着があるだろう。つまり、虚構と事実の均衡がじぶんをつくりあげてゆく材料になっているのである。

●社会

……その辺り一帯には昨年の高校三年生の合格実績が張り出されていた。花丸で囲われた『祝』の赤文字の下に名前と大学名が書かれている張り紙は、上だけ一点のみ画鋲で留められていて、廊下の端を人が通るたびに、風圧で一枚ずつふわりと浮かんでは落ちていく。一流大学も、名前を聞いたことのない三流大学も等しく風になびくのが、とても滑稽だった。(「アクアリウム」)
……人生で初めて好きになった女が色んな男と寝ているという噂が聞こえてきて、他人に興味が持てなくなった。バイトの塾講師は自分よりも良い大学に通う同期たちが羨ましくなって辞めた。他人が怖いというより、他人と関わるたびに活性化する劣等感に腹が立った。(「アクアリウム」)

『不器用で』

劣等感の反対には自意識の過剰さがどこかでじぶんとかみ合わないで他人にいびられて萎えて立っている。おれはちがうんだ、ちがうんだ、と空に向かっていっている。ではなにがちがうのか。もちろんそれはなにもちがわない。この社会へのちがうんだというじぶんの反響へやっけになるニシダは他人を閉ざしてゆくか、まったく無関心になってしまうしかなくなっている。だれでも劣等感をもつときにはじぶんではなにもしていないからだ。しかし、自意識に敗北するところからがはじまりだとわたしは思っている。そうかんがえればこの作品集が立っている位置がわかるのにちがいない。

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