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学生探検記録:中国洞天福地編part8

 司書のお姉さんに連れられて図書館の外に出ると、その図書館の隣が共産党の事務所だった。戸惑いながら入っていくと、年配しわくちゃの優しそうな顔のおじいさんが迎えてくれた。彼が書記の楊さんである。挨拶と自己紹介を済ませると、土屋氏の話題になった。彼が10年前にこの地で調査を行ったときのことを話され、土屋氏が送ってきた手紙を見せられる。「最初に送ってきた手紙の中国語は少しぎこちなかったけど、この前送ってきたものは違和感のない中国語だった。」そう言う楊さんはすごく土屋氏に会いたそうだ。「土屋先生によろしくね。」と何度も言われる。我々が土屋氏の教え子を名乗ったことで、楊さんが土屋氏にも会えると勘違いして招かれたのかもしれないと思うと、少し申し訳なくなった。
 本題の洞窟の話に移すと、彼は括蒼山について彼が書いた冊子を見せてくれた。写真付きで見やすくわかりやすい。そんな楊さんでさえ16の洞窟については何も知らないようだった。どうして誰も16の洞窟について知らないのだろうか。凝真宮の道長の作り話なのか。真相は未だにわからない。とりあえず道長に話を聞く必要があるだろう。
 「明日はどこに行くんだい?」と楊さんに聞かれた。「未定です。」と答えると、楊さん「仙居県には現存する道観があと二つある。そこに行ってみてはどうだい?」翌日は調査日として設けた最後の日であり、16の洞窟については何も情報をつかめていない。できることもなさそうなので、せめて道観に行ったら何か知っている道士がいるかもしれない。「はい。行ってみます。」そう応えると、楊さんは「では共産党員を一人案内としてつけよう。その方が安心だからね。」と提案される。共産党員がついていた方が、地元の人が話をしてくれたり、通訳の宋が聞き取れない方言を日本語訳してくれるかもしれない。同時に我々の行動を監視されることにもなるが、明日の行動として洞窟測量をする可能性は低いだろうから、監視されているからこれができないということはないだろうと思い、ありがたく提案を受けることにした。

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 その後ホテルに帰って図書館で得られた資料を確認し、翌日の予定を立てていると、ホテルのフロントから電話がかかってきた。「フロントに楊さんがお越しになっています。」という。どういうことだろうか。わけもわからず降りていくと本当に楊さんがいた。「悪いね。君たちともう少し話がしたかったんだ。」「それなら電話をかけてくれれば、こっちから出向いたんですが・・・」「いいんだ。」さっきは時間がなくてできなかった、我々のことについての話になった。「大学では何を勉強しているの?」「探検部では何をしているの?」「どうして道教に興味を持ったの?」我々が答えるとニコニコしてうなずいてくれる。最後に「私はもうこの先長くないから、今度君たちが仙居を訪れた時にはもう会えないかもしれない。その時は私の息子に君たちのことを伝えておくから、ぜひ頼ってくれ。」それから「土屋先生にもよろしく伝えてね。」と言われた。楊さんがタクシーで帰ったあと、「楊さんはホテルに来れば土屋先生に会えると思ったのかもしれない。」と通訳の宋が言った。

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 翌日、指定の場所に行くと、BMWに乗った若いお姉さんが待っていた。彼女が共産党員の慶さんだ。慶さんの車に乗り込み5分ほど田舎町を走ると、寺院についた。その中には村人が20人ほど集まっていた。男は煙草を吸いながらトランプゲームをしており、女は階段に座っておしゃべりしている。慶さんが「ここの管理人はいませんか?」と聞くと、村人が一人の僧侶を連れて来た。背丈は165㎝くらい、歳は40歳くらいだろうか。「こんにちは‼よく来たね。この石像すごいだろ。十二支が全部いるんだ。これが鼠、これが牛で・・・」いきなり説明を始めるがこっちとしてはありがたい。「へー」干支の石造を見ていると、僧侶は突如走って本堂の前に行って「これがここの仏様だ‼」という感じだ。元気な人だ。「ここに道観があると聞いたんですけど・・」と言うと、「それならこっちだ‼」と言って本堂の裏へ回り込む階段を駆け上がっていく。我々も走ってついて行くと、小屋の中に道教の神像が配置されていたが、小屋には南無阿弥陀仏と書いてある。ここには誰もいない。「これは三国志でも活躍した関羽で・・・」と解説が始まる。思った以上に詳しく教えてくれる。

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 「ここの近くに洞窟はありませんか?」と聞くと「ないね‼それよりこれを見てくれ。俺が仏僧である証明書だ。」と言って証明書を見せて来た。「すごいですね。写真を撮っても良いですか?」と聞くと「もちろんだ‼」と言って自慢げに証明書をかざし、「今度はこっちだ‼」と言って本堂の前に走っていき、合掌してポーズを決めたので撮らせてもらった。

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 次に訪れた道観も同じような構造だった。仏堂の裏に道教の神様が祀られている。ここは仏僧が一人で管理しているようだった。彼は道教についての知識もないため、管理しているが、道教の廟についての質問をしても知らないようだった。別れ際に写真撮影をさせてもらい、慶さんの車で共産党事務所へと戻ってきた。時刻は昼過ぎであり、慶さんの誘いで事務所の食堂で昼食をとらせていただくことになった。バイキング形式であるが、質素な料理が並ぶ。食事後タクシーでホテルへと戻った。この日で調査は終わりである。ホテルでこれまで集めた情報を整理して、焼き肉を食べに行った。通訳の宋はこのまま安徽省の実家に帰るというのでお別れだから、感謝の意味も込めて少し贅沢をしたのだ。

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 実を言うと通訳が宋に決まったのは、日本出発二日前の9月4日だった。もともとは私のアルバイト先の中国人に通訳を依頼していた。彼はこの活動に興味を持っていて交通費を出してくれれば報酬はいらないと言っていた。しかし出発一週間前に彼にドタキャンされた。それから彼が通う中国の大学のネットワークを使って呼びかけてもらったが、紹介された人とは毎回報酬額の交渉で決裂した。こっちの希望としては一日100元から200元、相手の希望は500元から1000元まであった。宋さんとは結局一日300元で引き受けてもらったが、あとで聞くと彼は普段一日800元で中日通訳を引き受けているという。「なんで引き受けてくれたんですか?」と聞くと「洞天福地というものを知らなかったんですが、皆さんが日本からわざわざ調査に来るほどなんだから知っておかなくちゃならないことだと思って。」ギリギリになって良い通訳が見つかって良かった。やはり聞き取り中心のこの活動は通訳なしであれば、ほとんど何もできずに終わっていただろうと思う。
 翌日列車で上海に移動し、飛行機で日本へと帰国しこの活動は終了した。

文責:辻 拓朗(法政大学探検部)

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