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相互監視による生徒管理の危険性 ~体育祭”肌着の色で持ち点減点”問題から~

 ある公立中学校で、普段の肌着の色を体育祭の得点に反映させるという指導が話題となりました。
 この問題は、1学校のおかしな指導ではすまされない、学校教育が陥りがちな、生徒を管理するため、生徒間で過剰に「相互監視させる」ことの典型例です。
 以下、引用は全て西日本新聞HP記事(5月19日、最後にURL記載)からとなります。

 男子生徒は昨年、話したことがない女子生徒から「もしかして、下着が白じゃないんじゃない?」と聞かれた。確かに薄い水色だったが、制服のシャツの下にわずかに透ける程度で「凝視しなければ気付かないのに」と気味が悪くなった。
 この中学では体育祭の10日ほど前から、性別を問わず、白以外の肌着を着ていないか、同じチームの生徒同士でチェックし合う。校則には肌着の色に関する記述はないが、「体育祭ルール」の違反者の人数は毎日、校内放送で発表された。
 体育祭当日、各チームの持ち点は違反者の人数に従って数点ずつ引かれていた。ただ、競技結果の加点が大きいため、勝敗にはほとんど影響しない。それでも、多くの生徒がお互いの肌着の色に目を凝らす。
 男子生徒は「他の生徒から監視されているようで嫌だった」。母親は「下着の色と体育祭の勝敗がなぜ結び付くのか。意図が分からない」といぶかる。


1.学校が作り出した「体育祭の得点」の利用 ~どうでもいい生徒と大切にする生徒との分断~ 

 そもそも服の色の規定に合理性があるのかも検討の余地がありますが、ひとまずそれは置いておきます。本件の特徴は以下の2つです。
 1つは、服装の問題を、本来全く関係のない体育祭の得点に結びつけることで強制力を持たせている点です。
 服装など校則の指導において、強制力を持たせるために内申点と結びつける、というより結びつくと思わせる指導はしばしば行われます。そうすれば、生徒が自発的に決まりを守ってくれるようになり、秩序維持が楽になるからです。しかし、内申点は進学時に使用する成績ですから、合理的な説明が可能なものでなくてはなりません。態度面ばかりを反映させるわけにはいきません。(内申点については、こちらで別に解説しています。)
 一方、体育祭の得点は学校内で終わる点数ですから、どうつけるかは学校の自由です。もちろん、体育祭の得点として服装が加味されるのはおかしいのですが、体育祭の得点について公的な決まりがあるわけではないので学校が罰せられたりはしません。この数字を服装指導に利用しているのは巧妙な手です。
 そして、この「体育祭の得点」という数値は、言ってしまえばその場限りの”どうでもいい数字”です。実際、体育祭の得点が減ろうがどうでもいい生徒は多数いるでしょう。しかし、体育祭を大切なものだと考える生徒もいます。
 ここで、チームの得点は、個人に割り当てられたものではなく、集団の数字であることが効いてきます。学校で行われるゲームの数値に過ぎないことを見透かしている生徒も、ゲームにちゃんと取り組む生徒からの監視を受けることになります。決まりを破ったことが見つかれば、集団からとがめられます。
 スポーツというゲームとしては、明らかにゲームマスターである学校の設定が悪すぎです。これでは、体育としては台無し、管理のための体育祭です。

2.相互監視の危険性 

 もう1つは、生徒同士で違反者を発見・報告しあう形、つまり生徒に相互監視を行わせている点です。先ほどチームの得点が「集団の数字」であることを述べましたが、この点を(悪い方向に)最大限活かすためのシステムといえます。
 記事内で、学校側は指導の意義をこう語っています。

 教頭は取材に「いつからか分からないが、生徒会が決めてやっている」と強調。チームをまとめる目的に加え、本番だけで勝敗が決まるのを避ける狙いがあるという。ただ、違反者をとがめるような言動が見られたときは「ブレーキをかける必要はある」と付け加えた。
(中略)校長は、事前の加点は結束力を高めるのに有効として「日々の練習を大切にする意識付けの一つ」と説明する。

 しかし、この指導は「教師・学校の責任逃れ」に留まらない問題を有しています。学校は、明らかに相互監視を生むシステムを採用(少なくとも承認)して、違反を見つけて止めさせることを期待しているのです。しかし、直接手を下してはないので、過剰な言動は生徒の責任にされます。促されたので頑張って監視の役割を担った生徒が、何か起きた時の責任を被る。どの生徒のためにもなりません。
 相互監視の危険性は、記事内でも指摘されています。

 中央大の池田賢市教授(教育学)は「コロナ禍の『自粛警察』のように、お互いを監視する目を育てている。団結どころか、相互不信を募らせる関係になってしまう」と警鐘を鳴らす。生徒会の自主的な行動であったとしても「教員の価値観を代弁しているにすぎない。教員に評価されるため、生徒がより厳格な校則を求める例はよくある」と話す。

 生徒同士で指摘させあうことで、ただでさえ理不尽な決まりがよりやりすぎな決まりになることは、容易に想像がつきます。というか、相互監視システムはそれを狙って導入されていると思われます。より決まりを気にして生活してもらう、より言うことを聞かせやすくする効果はあるでしょう。
 しかし、それによって学習や学校生活が妨げられ、体育祭の体育的な意義が消失してしまえば、本末転倒です。

 学校が子どもの相互監視を組み込むというのは、何もこの件だけではなく、体育以外の普段の教室でも行われています。また、日本の学校に限った話ではなく、海外でも指摘されています。学校制度自体が相互監視システムを使ってしまいやすいことに注意して、そうならないように考えなければいけません。

【参考文献】

◆四宮淳平「肌着の色で持ち点減点…体育祭前から生徒間で“監視”」西日本新聞HP、2021年5月19日:https://www.nishinippon.co.jp/item/n/740818/
◆越智康詞「校則の社会学的研究」『信州大学教育学部紀要』83、pp.47-58、1994年
◆劉麗鳳「教室の中の 「できない生徒」 はどのように扱われるのか ―中国都市部と農村部の中学校の比較研究―」『教育社会学研究』102、pp.155-174、2018年


 
 

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