自らの身体を感じとる
あるリハビリの若手療法士さんと話をしていたときのこと。
患者さんは、セラピストの前では、頑張ってリハビリの訓練をするらしい。
しかし自宅に帰ると、さっきの訓練は何だったのかと言いたくなるほど、訓練の成果が活かされない日常生活に戻ってしまうのだという。
なぜ、そうなってしまうのか?
そのポイントとして、その療法士さんは「自身の身体で感覚をつかむこと」と「汎化性」ということを話されていた。
リハビリの訓練で得られた新たな体感覚が、自宅での日常的な身体運動の変化・更新を生み出すことにつながる。
この汎化性を生み出すリハビリのプランニングが実に難しいらしいのだが、それがない限り、リハビリの訓練室と日常生活は断絶したままにとどまってしまう。そしてそうした現状が少なくないんです、とその療法士さんは話されていた。
この話はどこか、「主体的な学び」と関わるのではないか──。
主体的な運動感覚が身についた時に、リハビリであれば、訓練室で行った麻痺肢である脚の曲げ伸ばしの運動が、自宅に戻った時に、今まではのぼれなかった階段に今日はチャレンジしてみようという主体的な活動と、そこに向かう意欲につながる。
また、これは重度の四肢麻痺の男の子の療育に携わっていた理学療法士さんから伺った話。
普段は寝たきりの状態のその子に、自身の身体の重さを感じとるトレーニング(寝返りをうつように、少しずつ身体をゆっくり持ち上げて、再び、おろす)のなかで、その子が自身の身体の重さを感じ取った瞬間、天使のような笑顔を見せた、と。
「自分の体を感じる・知る」ということには、何か底なしに深い意味があるらしいことを教わったように感じた。
ある哲学者は、重要なのは「われ思う」(デカルト)ではなく「わたしはできる」という感覚だと言う。
自尊心、自己効力感、自負心、自恃。
そこに、身体はどんなふうに関わるのか。
また、そこで身体がもつ可能性はなにか。
このことを探究したい。
(文責:いつ(まで)も哲学している K さん)
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