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美術作品に旬なんてないけど、出会うべきタイミングというのは多分ある、という話 @エゴン・シーレ展

「エゴン・シーレ展」を見てきたんです、東京都美術館で。
その時に感じたのが、タイトルの通り。

美術作品に旬なんてないけど、出会うべきタイミングというのは多分ある

今回はちょっとせつない話です。展覧会レポートとは違う感じになりそうです。

* * *

1月26日から東京都美術館で始まった「エゴン・シーレ展」。

夭折した天才エゴン・シーレ。
私自身その絵に強烈に惹かれた時期があり、シーレの代表作をまとめて収蔵しているレオポルド美術館のコレクションが来日するという今回の展覧会を楽しみにしている、という話は前にしましたね。

前のめりで初日に行ってしまいました。

キービジュアルは《ほおずきの実のある自画像》

いやぁシーレさん、大人気ですね。人だかりでした。
もちろん日時指定予約制なので、会場内も作品が見えないほど混んだりはしませんけどね。

でもこの展覧会、「エゴン・シーレ展」と銘打っていますが、思ったよりシーレ以外の作家の絵が多かった印象です。
ウィーン分離派の作家たちの絵が多く(でもクリムトは少なめ)、なかでもウィーン分離派をクリムトと共に創設したコロマン・モーザーや、ウィーン美術アカデミーで学んだリヒャルト・ゲルストル、シーレとならぶウィーン表現主義の代表画家オスカー・ココシュカはそれぞれ章が設けられていました。

シーレの作品に溺れるつもりでいくと、ちょっと肩透かしにあいます(その代わり思わぬ出会いがあるかも)。

展示は地階→1階→2階と続くのですが、1階の途中からようやくシーレ作品がまとまって登場するという感じです。

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今回の展覧会のビジュアル画像に選ばれた《ほおずきの実のある自画像》。

興味が無いかのように顔を背けながらも、視線だけは意に反するかのようにこちらに向けられています。相手を見下ろすようでありながら、相手に何かを求めているかのようにも感じられるまなざし。画家自身が自分の感情の置き所を定めきれず、でもその不安定さをひっくるめて描き表してしまう点に、表現者としての非凡さを感じます。

そして画像だと伝わりにくいのですが、実物をみると背景の白地の明るさが目に飛び込んできます。逆に画面構成上、主役であるはずのシーレの顔はくすんで背景よりも沈んでいるという、自画像としても人物表現としても特異な彩色だと言えます。

自己陶酔しているようで自虐的でもある。この傾向が進むと、シーレが自分自身を陰鬱な死神に重ねて描いた《死と乙女》(注:本展出品作ではありません)のような表現につながるんだろう、と理解しました。

エゴン・シーレ《死と乙女》1915年、オーストリア美術館

ただ、《ほおずきの実のある自画像》の画家の暗く沈んだ肌の色ですが、近づいてみればその下に赤、青、緑といった力強い原色が隠れていることに気がつきます。

チラシより

この原色の差し色がシーレの人物表現の特徴ですね。《頭を下げてひざまずく女》でも、女性の肌のあちこちに赤や緑の絵具がチョンチョンとのせられています。

エゴン・シーレ《頭を下げてひざまずく女》1915年、レオポルド美術

この差し色がないと、シーレの人物画はずいぶん無機質な印象を与えるものになるはずです。枯れ枝のような体軀で描かれていても、血の気のない不穏な色で塗られていても、この鮮やかな色がちらつくことでシーレの描く人物は生命力を宿すと言えるでしょう。

* * *

という感じで、絵の一点一点を分析することはできます。
でも私が期待していたのは、こんな風にシーレの絵の構造を分析することではなかったんですよ。今回に限ってはね。

28歳でこの世を去ったシーレ。

残された絵にギュウギュウにつまった焦燥感。
思春期のナイーブさを結晶化したかのような、触れればこちらの指が切れそうな、それと同時にもろく折れてしまいそうな、攻撃性と脆弱性を感じさせる人体や植物のカタチ。

十九、二十歳の頃の私は、たしかにそこからシーレの叫びにも似た訴えを感じ取り、共鳴して心をふるわせていたのです。

あの心のふるえをまた味わうことができたらなぁ。
本物を目の前にしたら、もしかしたら今でも同じように感じることができるかも。
そんな期待を抱いていたのです。

でも、今の私がどんなにじっくり絵をのぞきこんでも、残念ながらあの時のような狂おしさは胸の中に湧いては来ませんでした。

優れた絵は、いつ何時でも感動を与えてくれる、というのは幻想です。

実際は、人によってその絵と出会うべきタイミングがあり、幸運にもそのタイミングで絵と対峙することができたなら、生涯忘れ得ない感動を覚えることになるのでしょう。

私も「エゴン・シーレ展」で、あの時の心がふるえた記憶を、かすかに思い出すことだけはできました。かつて出会うべき時に出会っていたからでしょう。そうだった、絵を通じて作者とつながることが私にもできていたんだな、と懐かしく思うとともに、その頃の自分をうらやましく思いました。

作品と出会うべきタイミングがいつかなんて誰にもわかりません。
今かもしれないし、十年後かもしれない。予測することもできませんし、仮にできたとしたらこんなにつまらない事はありません。
だから結局、好きな時に好きなように展覧会を見に行くしかないようなぁという当たり前の結論になってしまうんですけどね。

もしかしたら、今日が一期一会のタイミングかも。そんな風に思いながら、美術館に行くのもまた楽しいではないですか。

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