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オンライン展覧会に関する私見[体験の価値とは?]

2020年から2022年までの3年間、日本全国の美術館・博物館で目立ったのがデジタルシフトの動きでした。文化庁が補助金を出したこともあり、各館でチケットをオンラインで購入できるシステムの構築や、オンラインでコンテンツを配信するためのプラットフォームの整備が進みました。

これはもちろん日本だけの話ではありません。
Google Arts & Cultureを見れば分かるように、世界各国の主要な美術館は名画、名品を惜しげも無くオンラインで公開し、なかには展示室をバーチャル鑑賞できるところもあります。他にも同様のサービスを提供する会社が無数に存在します。
こうしてパソコンでタブレットでスマホで、お手軽に世界中の美術館が楽しめるようになりました。すごいことですよね。

でもなぁ……、という話をします。

想像してみてください。オンラインで次々と名画を眺めるあなたや私。MoMAのコレクションを眺めた次の瞬間にはスミソニアンを見て、その次にはテートを見て、満足して画面を閉じますよね。
さて、それで何かが残りますか。

オンラインの物足りなさ。
これに関して、今まで私は次のような考えを持っていました。

絵を見るということは、絵と対峙するということです。
絵を画像情報としてとらえると、画集などの印刷物で見ても、パソコンで見ても、スマホで見ても、大差はありません。しかし、展示室の中で絵の前に立つということは、決してそれだけではないはずです。
平面的な絵であっても、照明によって絵具のわずかな凹凸には陰影が生じ、物質としての確かな存在感を主張します。見る角度を変えるだけで、作品は異なる表情を見せます。
また、隣り合って飾られた絵は、互いに響きあいながら、それぞれの個性を際立たせます。そして同じ絵をまたどこかで見る機会はあるかもしれませんが、その展示構成で見ることができるのはその時限りの一期一会です。
だからこそ、オンラインではなく実際の展覧会に足を運ぶことは価値があるんだ、と。

でも、最近そこからもう少し考えが進みました。

上記の考え方で行くと、これからVRグラスが進化するなどして、もっともっとリアルに没入型のバーチャル鑑賞体験ができるようになったら、現実の鑑賞に近い体験ができるということになります。
しかし、実際はそうはならないと私は思っています。

なぜかというと、展覧会を楽しむということは、単純にコンテンツを消費することではないからです。

うーん、うまく説明できるか自信が無いのですが、これは登山や観光旅行を想像してもらうとわかるかもしれません。
たとえば登山の醍醐味のひとつは、山頂からの絶景でしょう。私も富士登山をして、山頂からご来光を眺めたことがあります。感動しましたし、今も脳裏に焼き付いています。その眺め自体は、わざわざつらい思いをして登山をしなくても写真で見ることができます。でも、それで登山の代わりになると思う人はいないはずです。
旅行もこれと同じです。全国各地の絶景は画像検索すればいくらでも出てきますが、じゃあ高いお金と時間を使って現地まで旅行する必要はないよね、とはならないですよね。

そう、登山や旅行はコンテンツの消費ではなく体験なのです。
旅行の計画を練る時のあそこも行きたい、ここも行きたいと悩む時間。家族や友達と行くのであれば、ワイワイ相談する時間。
旅行前日にちゃんと早起きできるか不安に思う気持ち。
飛行機や新幹線に乗って出発を待つ時のワクワク。
急な天候の変化や交通トラブルなど大なり小なりやってくるトラブル。
目的地に実際にたどり着いた時の、写真で見ていたあの場所にまさに自分が立っていることの実感。風の音、空気の匂い、寒さ、暑さ。
良いことも悪いことも、無駄なことも、寄り道も、ハプニングも、道中のささいな会話も、誰かと共有した時間も、全部ひっくるめて体験するのが旅行のはずです。だからこそ旅行は記憶に刻まれ、価値あるものとなるのです。

展覧会もこれと似たようなものだな、と最近気がつきました。
どの展覧会を見ようかなと思案して、休日の時間をやりくりして、電車を乗り継いで、寄り道をしながら美術館まで歩いて、きらびやかな美術館の外観をながめて、荷物が重いからロッカーに預けて、受付でチケットを買って、そしてようやく会場に足を踏み入れる。
一通り鑑賞を終えた帰りにはミュージアムショップでグッズを物色する。近くのカフェを探してぶらぶら歩く。コーヒーを飲みながら図録をパラパラ眺める。または一緒に来た人と感想を言い合う。電車を乗り継いで我が家に帰る。
美術作品を鑑賞するという目的に付随して、これだけの行動があり、それらが全部組み合わさってひとつの鑑賞体験として、心に刻まれるのです。ただコンテンツとしての作品を消化しただけでは決してありません。
時として忘れられない作品との出会いがありますが、それは例えばとても大切な人と一緒に初めて見た作品だからかもしれませんし、とてもショックなことがあった直後に見た作品だからかもしれません。単純に作品そのものが持つ美術的価値だけで、鑑賞体験が決まるわけではないのです。

こうして考えると、オンラインで提供される情報が技術の進化でどれだけリアルに近いものになったとしても、本当に身を揺さぶるような体験はできないでしょう。なぜならデジタル化の本質にある効率化とは真逆の、無駄、雑音、ハプニングなどが体験には欠かせないからです。
オンラインで作品を眺めることは手軽です。便利です。今風に言うならコスパもタイパもいいでしょう。でも、だから心には残らないのです。人間って難しいですね。

いうまでもなく、デジタル化は重要です。それによって、美術館に足を運ぶことがかなわない人にも情報を届けることができるのですから。やるかやらないかで言えば当然やるべきですし、今後もオンラインで提供できるコンテンツはまずます充実していくでしょう。

ただしデジタルシフトできるものとできないものがあり、プラスの面だけに目を向けるのではなくデジタル化することで漏れ落ちるものもあるのだ、ということは忘れてはいけないな、と学芸員のひとりとして考える今日この頃なのです。
あなたはどう思いますか?

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