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それはプライドか、それとも縄張り意識か[学芸員の仕事論]

学芸員の仕事に関して、最近ようやく自覚できたことがあります。

それは

展示内容に口を出されるのが嫌。

うーん、言葉にするとものすごく幼稚に思えてくるな……。
違うんです。もうちょっとだけ説明を聞いてください。

私は自分で言うのも何ですが、和を以て貴しとなす「ザ・日本人」タイプです。大抵のことにはそこまでこだわりが強くないし、波風を立てるのは嫌いだし、色々な人の意見を聞いて取り入れるのも割と好きです。

なのに、なぜか展覧会のこととなると、少し思考回路が変わるのです。

展覧会にはコンセプトなりテーマなりがあります。それに応じて作品を選定して、会場レイアウトに落とし込んでいき、さらに細部を詰めていきます(詳しくは↓)。

自分なりに軸をもって展覧会を構成している途中で、横から「この作品も今から加えられない?」なんて軽く言われると、もちろん大人なのでストレートに態度には出しませんが、心の中はちょっとした臨戦態勢に入ります。有り体に言えば「カチンとくる」わけです。

いや、まだ説明が足りていません。不思議と同じ学芸員から言われても、この拒絶反応は起きないのです。その時点でわざわざ言ってくるということは何か理由があるんだろうな、と思うわけです。

展覧会の開催にいたるまでには、当然ながら学芸員以外の多くの人が関わります。関わる人が多ければ多いほど、それぞれの持つ異なる道理が絡み合います。そこには色々と政治的な力学が働きます。これはどの仕事でも同じでしょう。

あくまで例えばですけど、展覧会に関わった1人(学芸員ではない事務方とか行政職員とか)が自分の組織内での立場を有利にしようとして、取引がある何か(組織、企業、作家)を展覧会にからませようと持ちかけてくる、とかね。この手の話はわりとあります。

政治、打算、かけひき。この学芸員の道理とは全く別の、もっと言えば作品や作家を軸に据えた論理とは別の、下世話で俗っぽい道理で美術の領域に割り込んでこられるのが、どうやら生理的に引っかかるようです。いまはっきり分かりました。よく言えば仕事に対するプライド、悪く言えば潔癖ですよね。
自分の持ち場を聖域化するのは、あまり褒められたことではないよなぁ。

で、もう一つ気づいたことがあって、同じ学芸員でもこの手の話に寛容な人もいるのです。私のようにいきなりカチンと来るような人ばかりではありません。「別にいいですよー」みたいな反応に驚かされることがあります。
これは生来の性格とともに、最初に勤めた館の風土によるところが大きいかなと思っています。

その点、私が最初に勤めた館は今思えばかなり作品原理主義というか、作品のことを最後まで責任もって考えることができるのは美術館の中でも学芸員だけ(他の人たちは遅かれ早かれ移り変わっていきますからね)という信念が徹底されていました。
だから展覧会の企画構成にタッチできるのは作品を扱う学芸員だけ、それ以外の人が内容に口を挟むなんてあり得ない、という雰囲気だったんですよね。
鳥の刷り込み効果のように、私の学芸員像はそこで形成されたので、最初に言ったような拒否反応を起こしてしまうのでしょう。

刷り込みですから、こればっかりは今さら直りませんね。
だからこそ肝に銘じているのは、自分の考え方はややタカ派で、学芸員が全員そうではないということ。自分の思考にも偏りがあるのだから、感情で即座に動かないこと。これで折り合いを付けてやっています。

すいません、今回は学芸員の中でも一部にしか共感してもらえないことを書いてしまいました。ぜひ自分の仕事に置き換えて、似たようなことがないか考えてみてください。自分だけの譲れない領域があるかどうか、という話です(そして、あるから正しい、というわけではない)。


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