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さぁ、国宝について話をしよう

今日はみんな大好き「国宝」の話をしたいと思います。

国宝はすごいです。なんたってお客さんが来てくれます。
展示室で、「国宝」の冠がついた作品(文化財)の前は、常に人だかりとなります(逆に言えば、国宝が出ていると無冠の作品はスルーされがち)。

えーと、国宝がなんだかすごいものだというのは知っているけど、

国宝ってそもそも何?

国宝って誰が決めてるの?

あらためて考えると、よく知らない人もいるかもしれません。そんなわけで、知っておいて損は無い国宝についての豆知識を紹介します。詳しい人には常識かもしれませんが。

そもそも国宝ってなに?

日本には、歴史的、文化的、芸術的に貴重で価値の高い文化財が数多くあります(というかどこの国にもそれぞれあります)。

これらの文化財を守り伝えるために、文化財保護法という法律があります。

文化財のうち、絵画や彫刻、また建築などの形あるものは「有形文化財」、能や歌舞伎などの演劇、また技術そのものなどの形がないものは「無形文化財」と言います。

文化財保護法では、有形文化財のうち特に重要なものを「重要文化財」に指定すると定められています。重文と略して呼ばれるやつです。これを指定するのは文部科学大臣、つまり文部科学省です。

この重要文化財の中でさらに貴重なもの、文化財保護法の言葉を引用するなら「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」が、「国宝」に指定されます。この指定も文部科学大臣によります。

有形文化財 → 重要文化財 → 国宝

という流れで指定されるわけですね。

国宝を決めるのは誰?


重文も国宝も指定するのは文部科学大臣ですが、当然それは最終的な承認者ですから、それまでに選定をする人がいるわけです。

文化財の指定を検討するのは、文化審議会の中の文化財分科会というグループです。どんな人で構成されているのかというと

佐藤信(東京大学名誉教授,横浜市歴史博物館長,くまもと文学・歴史館長)
島谷弘幸(国立文化財機構理事長,九州国立博物館長)
西岡陽子(大阪芸術大学教授)
藤井恵介(東京大学名誉教授)
宮崎法子(実践女子大学教授)

「文化審議会文化財分科会委員名簿」文化庁HP

館長や名誉教授クラスの人たちですね。この人達が実際にあれこれ動くわけではありません。その下にいくつも専門調査会が設置されています。

この専門調査会は、何十人という美術史研究者や学芸員の重鎮クラスで構成されていて、ここに文化庁の調査官たちも加わって、候補となる文化財の調査を行い、指定の是非を検討しています。

その前段として、各都道府県独自の文化財指定というものがあります。県指定文化財、また市町村の指定文化財などですね。これらの中から、重文が生まれ、まれに国宝にまでランクアップ(?)するのです。

破壊や流出阻止!が国宝指定の当初の目的

国宝の指定が文化財保護法によるものだと説明しました。この法律が制定されたのは、昭和25年(1950)です。その前年に、奈良の法隆寺に火災があり、金堂の壁画が焼損した、という事故がきっかけとなりました。

ですが、文化財保護法の制定は明治時代からの流れで理解する必要があります。

古器旧物保存方 → 古社寺保存法 → 国宝保存法 → 文化財保護法

という段階を踏んでいるのです。

駆け足で説明します。明治元年(1868)に政府が発布した神仏分離令が引き金となって、全国各地で廃仏毀釈という過激な運動が起こりました。寺院の仏像や仏具、仏画、絵巻物などが徹底的に破壊され、焼き払われたのです。文化財の歴史上、最大の汚点となるすさまじい破壊活動であり、この時失われた文化財の総数はいまだに把握できないほどの量だと言われています。

さらに、明治になって没落した寺院や旧大名家が経済的な理由から寺宝や家宝を次々と売却したため、多くの文化財が散逸し、海外へと流出していったのです。これに危機感を覚えた政府が、明治4年(1871)に発布したのが「古器旧物保存方」でした。

ここから文化財保護のために社寺の宝物の調査が精力的に行われるようになります。壬申検査と呼ばれる文部省博物局による実地調査を皮切りに、フェノロサや岡倉天心らが加わった文部省の古社寺調査、九鬼隆一を中心とした文部省、宮内省、内務省の合同宝物調査、臨時全国宝物取調局による全国の社寺や個人所有の宝物調査、などが徹底的に行われたのです。

そうした調査の成果を受けて、明治30年(1897)に「古社寺保存法」が公布されました。この法律の中で「国宝」という言葉が登場します。社寺の貴重な建造物や宝物には、保存のための修繕費を与えるとする一方で、処分や差し押さえを禁じると定められました。要するに、所有者であっても国宝の移動は禁止されることが明文化されたのです。これには国宝のこれ以上の海外流出を防ぐ意味合いが強くありました。

ここまでは保護の対象となるのは、古社寺に限定されていました。廃仏毀釈によって致命的なダメージを受けていたため、その保護が最優先課題だったと言えます。昭和4年(1929)に発布された「国宝保存法」では、国が保護すべき国宝として指定する対象が社寺だけでなく、地方公共団体や個人の所有物まで拡大しました。

そして、これを引き継ぐ形で昭和25年(1950)に制定されたのが、最初に触れた「文化財保護法」でした。ここで有形文化財の他に、無形文化財、民俗文化財、記念物なども保存対象とする総合的な法律が出来上がったのです。

まとめと小ネタ

「国宝」というと、価値が一級のモノ、とてつもなく貴重なモノ、というイメージがあると思います。もちろんそれはそれで正しいのですが、別に文化財のランク付けをするために指定をしているわけではなく、売却されて行方不明になったり、海外に渡って手が出せなくなったり、ずさんな保存管理によって取り返しのつかない状態になったりすることを避けるのが主な目的なのです。

逆に言えば、どんなに貴重なものでも散逸や破壊の心配がないものだったら、国宝に指定する必要はないのです。

そんなものがあるか?実はあります。

それは、皇室、天皇家の所有する文化財です。「御物」(ぎょぶつ)と呼ばれて伝わったものです。

日本の歴史の教科書でもおなじみ、元寇を描いた《蒙古襲来絵詞》、桃山時代の傑作である狩野永徳《唐獅子図屏風》、一大ブームを巻き起こした伊藤若冲《動植綵絵》などなど、数え切れない宝物の数々があります。

これらはずーっとずーっと、明治、大正、昭和、平成、令和までの長い間、国宝でも重要文化財でも何でもなかったんですよね。理由は上記の通りです。

しかししかし、昨年これが変わりました。皇室ゆかりの品が国宝指定されたのです。これには正直驚きました。

推測にすぎませんが、どうも保護のためというより、文化財として活用するため、もっと言えば観光資源としての価値を高めるため、という意味合いが強そうです。文化庁と宮内庁、裏でどんな取り決めがあったのやら。はてさて。


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