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学校の外側から見えないこと~集団の苦しさ

こんにちは。

昨年は完全不登校だった息子ですが、今年度のGW前後から少しずつ登校を始め、今は私が付き添うかたちで毎日登校するようになりました。授業を抜けたり、ときには早退したりしますが、基本的に朝から放課後まで学校で過ごす日々です。片隅に私の座る椅子を置かせてもらって、息子の様子を見ながら私も教室で過ごしています。完全に行かない方が楽だったのでは…と思ってしまうような出来事も結構多く、不安定になりながらどうにかこうにかやり過ごす毎日が続いています。

ほとんど毎日一日中、子どもたちと同じように授業を受けてみると、学校の様子がとてもよくわかります。そして、『ああ~これは、子どもたち理不尽な思いしているんだろうなあ!』そう思う場面が、たーーーーーーーくさんあります。嫌ってほどあります。これらは子どもが何事もなく登校していたら見えなかったことでしょう。

例えば

1,子どもの個性を無視して、クラス全員に同じことを強制する仕組み…日直の号令やスピーチなど。どうしても人前で話すことが苦手な子は声が小さくなってしまうし、進行も遅れる。それに対する叱責。そんなことではますます発言することを恐れるばかりで、良いことなし。その子のトラウマにもなりかねません。先生は、発達特性や場面緘黙症等、子どもの心身に関する知識をどれくらい持っているんだろう?

2,『イケメン』『かわいい』『男の子は女の子に優しく』『そんなんじゃ女子(男子)に好かれないよ』などなど、教師による性差やルッキズム的な発言。いつの時代の発言カナ?こういう大人の無自覚で安易な発言が、外見で人を判断する思考や男女差別する意識をスルッと子どもたちの心の中に根付かせてしまうものです。将来それがまた誰かを傷つけることになることもあるんですよね。

3,言い分を充分に聞いてもらえない子どもたち。何かトラブルが起きると、教師はそれを収めることを第一の目的としがちです。例えば普段悪ガキ的ポジションにいるような子が当事者だと、ただただその子に謝らせるだけで終わってしまったり。かたちばかりの謝罪をした子どもは不満を抱えたまま、そのストレスはどこへ向かうのでしょうか。

以上は一例ですが、すべて私が普段の校舎の中で見た事実であり、感じたことです。

子どもたちは、ちゃあんとそういう大人の矛盾をすべて見抜いています。
子どもの純粋な目だからこそ、鋭く見抜けるんだと思います。

学校に通うことに困難を抱えている子って、その原因は様々あれど、みんな自分の中の違和感をしっかりとキャッチしている、とても健全な心を持っていると思うんですね。

そういう子ほど、学校という場がキツイものになってしまうのかな…と思うと、とても悲しい気持ちになります。

ある程度、心や感覚をマヒさせることでしか、学校生活を生き抜いていけないのだとしたら…一体学校教育って何なんでしょうね。知識を植え付けるだけなら、学校じゃなくたってできる。だったら集団生活がなんのためにあるのか。どうしてこれだけ多くの子どもたちが、苦しい思いで学校に対峙しているのか。改めて考え直さないといけない時期に来てるのだと思います。

このままではいけないと感じながらも、私にできることは身近な人たちの心を大切にすることくらいなのかもしれません。

母子登校も長くなり、私の存在も子どもたちに浸透して、みんな親しげに話しかけてくれるようになりました(笑)。子どもたちが私と接するとき、なんだか緩いおばちゃんだな~と思ってもらえたらいいかな。休み時間のちょっとでも、緩い大人の楽しさを共有できたらいい。

以上、母子登校の現実(私個人のケース)でした。

矛盾だらけの学校での時間が終わって放課後、友達と活き活きと遊ぶようになった息子の姿。誰とも接触したがらず、家から一歩も出ようとしなかった昨年は、こんな日々が訪れることを全く思い描けずにいました。

子どもたちは皆、逞しい。
我が子だけでなく、みんなの活き活きとした姿を見続けられる世の中でありたいですね。


【不登校についてみんなで話す会(親の会)】開催しています。詳しくは過去記事をご覧ください。


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