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【教育移住先をどうやって決める?】そのタイミングと決断の理由



私たちがこれまで教育移住先を変えてきたのには、それなりの理由がありました。ここでは、コロナ禍での一時帰国後、何故ハワイに戻らずバンコク、そしてメルボルンに移住したのかを中心に話していきたいと思います。

ワイキキビーチ

▪️2016-2020 日本→ハワイ


日本人にとっての最重要国であるアメリカ(個人的な意見ですが)を

幼い時に体感させたい”と

いうのがハワイを選んだ大きな理由でした。日本人として生きていく上で、

アメリカとは何ぞや?

を暮らしを通してその文化や考え方、習慣を体感することが重要だと思いました。

そのアメリカの中でもハワイを選んだ理由は、まだ子供たちが幼かったため

  1. 安全であること

  2. 日本語でも医療を受けやすい

  3. 日本との往来のしやすさ

  4. 自然の豊かさ

  5. アジアンヘイトが少ない

などが主な理由でした。

又、幼少期にAlohaスピリットに触れながら自然の中で情操教育をすることで、まずはいいイメージを持ってアメリカを知ることができると考えました。

ハワイの現地小学校

ハワイでの成果については又、別の記事で綴りたいと思いますが、この4年間の経験は彼らの人格形成に大きな影響を与えた事に間違いはありません。


緊急帰国の飛行機の中

▪️2020-2022 緊急帰国

忘れもしない2020年3月20日、コロナでハワイ全土がロックダウン。
友達にも会えない。学校にも行けない。

留学の意味がないので一週間で帰国を決意

苦渋の選択ではありましたが、

・コロナが何者かわからない。
・子供達を私1人で守れるかわからない。

まずは母国に帰って彼らの安全を確保し、この先世界がどうなっていくかを見ていく必要があると考えすぐに行動しました。

私の突然の決断に子供達は呆然とし、周りの友人たちもそのショックは言葉では語り尽くせない様子でした。

まだ幼なかった下の子が、最後に一番大好きな友達に会いにいった時、車の中で大粒の涙を流して声を殺しながら泣いていたことを思い出すと、今でも胸が熱くなる思いです。

その時の彼らの、喪失感、脱力感、悲しみの深さは計り知れないものではありましたが、それだけこのハワイでの4年間は彼らにとって深く、大きく意味のある時間であったことを物語っていると思います。


▪️2021-2022  日本→バンコク


コロナ禍で緊急帰国をした後、又ハワイに戻るという選択肢もありました。心の整理もつかないまま泣く泣く帰ってきた子供達にもう一度大好きな友達たちとせめてもう少し、心の踏ん切りがつくまで学校生活を送らせてやりたかったからです。

当時、ハワイは子供達にとって自分たちが生きる場所であり、何よりもかけがえのない友達が全員ハワイにいたのです。

しかし元々私のハワイでの学生ビザは5年だったので、その後の海外教育プランとして以前から”マレーシア”が念頭にありました。インターナショナルな環境で次はアジアを学ばせたいと思っていたからです。

日本以外のアジアを知ること=先進国だけでない国を知ること、は彼らの視野を広げ、深い思考と多くの引き出しを作り出すのではないかと考えていました。

東南アジアの多文化な環境で、そこそこクオリティの高いインターナショナルスクールが比較的安い学費であり、更に生活コストや食文化を考えると暮らしやすそうなマレーシアはとても魅力的な国でした。

ハワイでは私自身がカレッジに通うため学生ビザ(F1)を取得し、子供達は私に帯同する(F2ビザ)を取得していたため、現地の公立校の学費は無料だったのですが、次の教育地では子供たちの学校にコストをかけたいと思っていたのです。

ハワイはご存知の通り当時から物価は高く子供に学費がかからないと言えども、家賃、食費、学費(私のカレッジ)、医療費、車維持費、保険、光熱費、、とあげればキリがないほど滞在するだけで大変なコストがかかります。

子供達はまだ幼かったので自分たちの部屋こそ持ちたがる事はありませんでしたが、セキュリティも何もない築40-50年の1ベッドルームアパートで、大体2000ドル前後/月かかりました。当時は1ドル110円前後だったのですが、それでも私たちにとって生活費にかかるコストは大変な出費でした。

しかしながら、東南アジア、マレーシアなどではこれらの生活費がかなり抑えられ、その分子供達の学費に充当できると考えました。

余談ですが、今の為替(2024年現在)なら到底実現できなかったコストだったと思います。できる時に実行しておいて本当に良かったと思います。

帰国後、日本での学校生活に苦悩していた彼らを横目に、早く海外の教育に戻してやらなければと思っておりましたが、念頭にあったマレーシアが当時大変厳しいロックダウンを続けており、学校はいつまで経ってもオンライン、外出禁止令も出ていたりなど、留学するには大変厳しい状況でした。

しかしそんな中いち早く開国し、学校もオンラインから通学に切り替え出したのがタイのバンコクでした。

バンコクも世界中からきた多くの人が住んでおり、大変グローバルな都市ですが、インターナショナルスクールの学費がマレーシアに比べて非常に高かったので候補には入れていませんでした。

ざっくり言うと同じような規模の学校でも大体マレーシアの1.5倍近くの学費だと言っても過言ではないと思います。

しかし、当時バンコクではコロナで多くの留学生たちが本国に帰国をしたことから学生が激減し、多くのインターナショナルスクールの経営が厳しい状況になっていたので、激減した生徒を取り戻すべく、各学校が入学金オフや、学費の大幅割引、兄弟割引など大キャンペーンを行っていたのです。

タイは旅行では大変魅力的な国ですが、住むとなると恵まれた駐在員でもない私たちの生活や子供達の学校環境がどんなものになるのか全くの未知の世界でしたので、どのくらいの期間滞在できるかもわからない状況での留学に”入学金が必要ない”という事は私たちにとって、大きな決め手となりました。

要するに通った分だけの学費を払えばいい、という事でしたので、この国での学びに納得した時点で次のステップに行きやすい、というのは大きなリスク軽減となりこれは東南アジアにいく絶好のチャンスだ!と思いました。

ハワイに戻るのではなく、前に進まないといけない、進まねばと直感的に感じたことを今でもはっきり覚えています。

当時の子供達の心情はと言うと、勿論

ハワイに戻りたい

が一番でしたが、日本の教育に四苦八苦していた彼らにとって、新しい場所であったとしても、海外で又教育を受けられるという事に前向きになれたようでした。

それでもバンコクに初めて入国した時は、空港周りの様子やタイ語に彼らは少し衝撃を受けていました。まだ、入国後隔離があったので空港近くのホテルにしばらく滞在していましたが、10日間ほど外に出ることは許されませんでした。

毎日運ばれてくる隔離食は今まで見たこともない、ほとんど口にしたこともないタイ料理で、子供たちは毎回ゲンナリしていましたが、タイ料理好きの私には全然問題ありませんでした 笑



隔離中、一度ホテルの支配人さんのご好意でプールを使わせていただくことができたのですが、その時初めて見たバンコクの街並みは、排気ガスでいっぱいの高速道路沿いの荒んだ看板やお店、屋台だったのでそれらをプールからとても不安そうな顔で見ていたのを覚えています。

ただ、隔離が解け、住まいも落ち着き学校が始まった頃にはそんな不安もすぐに吹き飛んで行きました。

初めての登校日。ホテルのトゥクトゥクに乗っての通学に不安な様子。

バンコクでは英国系のインターナショナルスクールに通ったのですが、登校初日から生徒たちは彼らをウエルカムしてくれ、様々な国の子供達とあっという間に仲良くなり楽しい学校生活が順調にスタートしました。

街並みや食べ物は決して彼らが望むものではなかったのですが、日本一時帰国の約2年間、本当の意味で自分たちの気の合う仲間を作れなかったことに苦痛を感じていたので、又、真の友達と言える人たちと出会えた事に大きな喜びを感じていました。

▪️2022-2023  バンコク→メルボルン

バンコク、オンヌット駅前のフルーツ屋台
バンコク屋台で食べ放題の野菜

バンコクの生活にも慣れ半年ほど経った頃、私が運動不足解消のため通い出した日本人のテニスクラブである初老の日本人女性を紹介されました。

そのクラブではバンコクやイギリス、インドなど様々な国で駐在されていたという駐在員の方々がいたのですが、その仲間のうちの1人の方が、約20年ほど前に2人のお子さんを連れてオーストラリアのメルボルンに親子で教育移住をしていたいう方を私に紹介したいとおっしゃり、お会いする事になりました。

彼女は、親子留学の先駆けともいうべく方で、ずいぶん早い時期からインターナショナル教育に熱心に取り組んでおられました。

メルボルンを選ばれたのはご主人のお仕事関係で交換留学ができたというのがきっかけだったようですが、その時私は初めてメルボルンがあるビクトリア州の教育システム、オーストラリアの大学進学事情、メルボルンの文化的な環境など色々な話を聞きました。

これまでオーストラリアに旅行や短期留学に出かけたことはあったのですが、特に子供の留学地として考えた事はありませんでした。

ただバンコクにいた時、漠然と大学進学の事を考えるとアメリカやイギリスの大学は正直なところ現実的ではないと思っていました。
この頃から日々進むインフレと円安を考えると、アメリカやイギリスの大学は最早普通の日本人が手の届く額ではありません。

子供がよほど優秀で、返済不要の奨学金でも取れるというならいいかもしれませんが、アメリカやイギリスの大学の費用は庶民がちょっと頑張ったら行けるというレベルではないと感じていました。

バンコクのインターナショナルスクールではIB(国際バカロレア)カリキュラムを採用していたので勉強も勿論大変になりますが、授業料も更に上がるのに、この先アメリカやイギリスの大学が経済的に現実的ではないとなると意味があるんだろうか?と疑問に思い出していました。

それに加え、子供達のバンコクでの学校生活は親しい友人たちはできたものの、学校が終わるとクラブ活動をするわけでもなく、裕福な子女たちと学校帰りにショッピングモールで戯れたりするだけで、自然やスポーツを楽しむといった事もあまりなかったので、そこにも少し不安を感じていました。

東南アジアでの生活環境や、英語圏でない国での暮らしは彼らにとって大きなインパクトはあったと思います。

衛生面など綺麗が当たり前であったり、世界の最先端の文化に触れる機会が多い日本や他の先進国との違いをここで彼らは十分に感じ取ったと思います。

彼らの周りにいる友人たちはタイは勿論、世界中から来た裕福な子女たちで贅沢で保証された生活をしており、運転手付きのリムジンで遊びにくるお友達もいました。

たまたま生まれた国や家が違うだけで同年代の子供たちの貧富の差も目の当たりにしたのだと思います。自分と歳の変わらない子供や、もっと小さな子供達が路上で物乞いをしています。その横を彼らは毎日綺麗なポロシャツのユニフォームを着て少し罪深い気持ちで素通りして学校に通います。

この頃私の中で、彼らの多感な10代をこの環境で長く過ごさせていいのだろうか?という疑問が出てきました。

10代で目に入ってくるもの(街並み、自然、芸術、スポーツなど) 、耳に入ってくるもの(音楽、情報、など)、匂いなどは五感に大きく影響し大人になるまで残り続けると思いました。

そこから私はオーストラリア、メルボルンの事を急ピッチで調べ出しました。現地の学校事情、学費、生活費、医療費、ビザ取得、、etc.  知るべきことは本当に多くありました。

一番大きかったのは、オーストラリアの大学は先を見据える事ができる現実的な学費ということがわかった事でした。世界のトップスクールといえども、アメリカやイギリスの半分以下のコストになるのではないでしょうか。

メルボルン大学

又、大学進学も、基本的に高校のVCEというカリキュラムで成績によって、どこの大学に行けるかが決まると言います。つまり、各自の目標とする大学に向けて学校の勉強でしっかりスコアを作っていく=学校の勉強を頑張る、という事です。

日本の教育の中で私が一番疑問に思っていた、

”学校の勉強を頑張らずして塾で勉強するという受験文化”

がとても納得できなかったので、オーストラリアのシステムはフェアだと思いました。

又、ギャップイヤーと言って1年間は大学に行かず自分が本当に何をしたいか働きながら、又はボランティアをしながら、もしくは旅をしながら考える子供達もいると言います。

更に、オーストラリアは大学に進学しない子達も多くいます。職業訓練校(TAFE)や私立の専門学校で専門知識を身につけ就職します。
オーストラリアではいわゆるブルーカラーと言われる仕事でも日本とは比にならない収入を得る事が可能だからです。

そのような様々な選択肢がある国を最後の海外教育地として多感な時期を過ごすことで、自分たちがこれまで経験してきた国や文化と比較しながらも、どのような環境でどんな人生を送っていきたいかを少しずつ意識していけるのではないかと思いました。

オーストラリアはとても資源豊かな国でもあるので、スーパーや市場ではいつも新鮮な食材がとても綺麗に陳列されています。

プラーン市場のシーフード売り場
きのこ売り場
ハローウィン用のカボチャ

一流の建築家たちが集まるメルボルンの街並みはヨーロッパの風景を彷彿させる雰囲気があり、人々の美意識も非常に高いと思います。

住宅地にはモデルハウスのような素敵な家も立ち並んでいます。

そしてちょっと足を伸ばすと息を呑むような大自然や、素晴らしいワイナリーが広がり、オージーたちは日常生活の中で、自然と都会を楽しみます。

海外沿のワインバー

早い人なら3時や4時には仕事を終え、まだ明るい夕方5時頃からはカフェやバーで家族や友人たちとワインや食事を楽しみます。彼らは家族や友人たちと過ごすこのような時間を仕事以上に大切にします。

資源も豊かであり、経済的にも余裕のある暮らしが一般庶民という人たちにある程度保証されており、お金持ちにならなくともそれがスタンダードであるという豊かな国を知ることも、今後彼らの人生の選択肢の中で大きく影響していくと思います。

メルボルンでの生活が落ち着いた頃、バンコクからメルボルンに移ることに大きく反発をしていた長男が言いました。

自分たちがどうしてメルボルンに来たか何となくわかったよ。

彼は多くは語りませんでしたが、彼の中ではっきりしたことは

メルボルンの大学を目指したい

という目標ができた事でした。
実際はどうなるにしても、16歳で少しずつ将来の方向性が見えてきたのだと思います。

それぞれの国で自分たちが感じ取った事を整理しながら直感を信じ、進みたい道を見つけていくスタート地点に入ったように思います。






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