【キャリア/転職】終身雇用、安定を捨てた理由①
最初は何を書くかなどもあまり決めていないので、まずは自己紹介として、私のキャリアについて書きたいと思います。7年前に転職して以来、新たなキャリアを歩んでいます。思い返せば、ちょうど今頃、通勤が大変だなと思いながら、電車で1時間ほど揺られて出勤し、仕事中に読書やニュース記事を読みながら通勤していました。その後、約1か月後に偶然目にした記事がきっかけで、転職というそれなりに大きな人生のイベントに挑戦することになるとは、夢にも思っていませんでした。
3部作で書いてみます。
転職に興味ある方、暇な方、お時間許せば読んでみてください。
就職〜チームリーダー(7年間)
チームリーダー〜転職(3年間)
転職〜現在(7年間)
社会人キャリア
就職
私は大学を出ていません。高校生時代も悪友と夜中まで遊び、翌日午後から学校に行くようなろくな生活をしていませんでした。ただ、父親のようなサラリーマンではなく、手に職を持って働くんだ!みたいな漠然とした考えがあり、専門学校に行くことにしました。改めて考えてみると、学校まで出してくれた親に感謝です。専門学校は2年制だったので、20歳の年には就職する必要があり、入学当初から"大手に入って一生安泰"みたいな考えで専門学校に来ている求人を眺めていました。元々名前を知っていて興味のあった企業の採用枠は1名しかありませんでした。その採用枠も毎年学年から1名のみが試験を受けることができるもので、私は幸いにもその1枠に選んでもらうことができました。また、就職試験と言っても簡単な筆記となぜか体力テストだったので余裕でパスし、晴れて2007年に新卒として重工グループに入社することができました。
下積み?
製造部門への入社でしたので、地元の工業高校を出た方や同じ分野の専門学卒が数名、総勢27名がその年の現業職で、給料は寮費、食堂費を差っ引かれ手取り12、3万円程度だったと記憶しています。本当に日本の会社だなと思うような研修(教練という大声で歩幅を合わせるものが印象的でした)が3か月あり、その後仮配属2か月、10月に仮配属された部署に本配属されるような流れでした。
私は当時、つぶしが効くように手に職をつけ、いつか塗装屋をやる!みたいな謎の目標を持っており、誰も行きたがらない下請け会社と一緒に仕事をする塗装職場への仮配属を希望しました。仮配属初日に炎天下の中、合羽を着て塗装の下地処理を一日中行ったことは二度と忘れることはないでしょう。また、下請けの職場の方も一切口を聞いてくれなくて、なかなかヘビーな配属だったのかもしれません。今風に言うと、配属ガチャで★1って感じですかね。本配属も無事に決まり、下請けの方とも打ち解けることができ、技術も身に付いたことで薄給でしたが、充実した日々を送っていました。
転機
3年程勤めた頃転機が訪れます。派遣法の改正?だったかで下請けの会社と同じエリアでは働けないこととなり異動が命じられました。いくつかの選択肢があったのですが、当時上司(班長:部下5名程を管理するポジション)から気に入ってもらえてたこともあり、同じ部署に異動しないかと誘われていました。ですが、私は当時寮を出ており、家賃負担が嫌で再度寮に戻りたいなと考えていたところでした。そこで、一つ隣の県にある工場の塗装職場への異動を受諾することにしました。これもまたあまり人気のない職場だったと記憶しています。新しく配属された職場は異動前の職場と逆で下請け会社から業務を完全に戻してもらう必要がありました。新しい職場の班長は若くして昇進しており(36歳とかだった気がします)当時最速の昇進で有名な方でした。まくしたてるような形でロジックを展開することが強みで、それもあってか下請けの方との間にあまり良い関係は構築出来ておらず、業務の引き継ぎが上手くいっていませんでした。私は良い意味で双方のメッセンジャーとして上手く職場に溶け込むことが出来ました。それから私のキャリアが大きく進んでいくことになります。
製造関連では日々”カイゼン”を行うことが求められ、Cycle TimeやLead Timeを短縮することを要求されます。そんな中でコンサルや上司の圧力に耐えかねて挫折する人や心が病む人は少なくありませんでした。私の職場は前項でも話した通り不人気職場=いろいろな人が行き付く先でした。休職する方や来てもすぐに異動する方が後を絶たたず、2年も経たぬ間に自分は古参となっていました。そんな中で班長が職場長へ昇進され(部下の人数が10数名で複数班を管理します)、私は手当無の班長代行職を当時最年少で担うことになります。そこからは”カイゼン”の毎日で、元々残業が好きではなかったこともあり、班の作業効率を高めることに最初は特に力を入れました。定時操業のチームに成長させることが出来ました。アクション自体は作業そのものの見直しや当時8名いた班のメンバーとのコミュニケーションを増やし、効率的な作業方法を立案してもらうなど自分よりもメンバーからの意見を中心に作業スケジュールを組み替えていきました。これらをブラッシュアップしていったことが結果に繋がったのだと思います。今思うとこの時に会話したことが今も働くうえでのベースになっていると思います。
仕事は3回で覚える。一度目は聞く、二度目はやってみる、三度目は二度目で出来なかった部分を改善する。
視座を一つ上の視点で仕事する。
(以下は視座という言葉を教えてくれた方が推薦していた図書です。)
続く
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