純粋に楽しませて

始まりは2020年6月ごろだと思う、コロナでリモート授業になり、バイトもしていなかったからパワポケ9、10、11まで立て続けに遊んでいた。9はそこそこ楽しんでやり込めていたと思う。11になってくると物語を消化するためだけに手を動かしていた。

この頃から、自分の成長のためになるもの以外は時間の無駄なのではという思考が頭の片隅を占めている。捨てたい思考だ。ゲーム、映画、本などに多くの時間を費やしているが、本と映画はまだいい(厳密にはよくないのだが)ゲームをやっていても、このゲームを上手くなったところで何の役にも立たない、自分がストリーマーだったらなーとかくそみたいな考えにしかならないのだ。だったらプロゲーマーとかストリーマーになればいいじゃんという話なのだが、その確率の低さに可能性を感じれる正確ではないので厳しいところである。

また、生放送を好んでみることができないのだ。生放送でしか感じられないこと、その瞬間を配信者と共にしたという実感など良いところはわかっているつもりである。しかし、いつ終わりが来るかもわからない配信をだらだらと見続けるならば、何か別の人生の役に立つことをしたほうがいいという思考になる。ここが嫌だ。生放送で人生が変わる可能性だって存在するのに。代わりに本を読んだって同じだい、なにか行動を積み重ねるべきなのである。

幼いころは何の目的もなしに読んでいた本を、いまでは何らかの目的が存在しないと読めないようになっていることを実感する。厳密には暇つぶしという目的があったかもしれない。ゆるく生きる生活を肯定するため、社会情勢についてしるため、宗教について学ぶためなどの目的をもって本を読んでる。目的を持って行動するのが人間なのか。にゃんたこの目的は、人生を限りなく楽しむこと、その裏には仕事以外からの収入がある。もちろん楽しいこともあれば、悲しいこともある。まあ目的を持たずにがんばっても、成功にはつながらないという思いに至った。にゃんたこのスター性、影響力についても分析したいな。

思えば、『ボックス』(百田尚樹)を見て部活へのモチベーションを意図せずあげていた。読んだから効果がある例だ。最近は最初に目的があって、それが得られると思いながら読むから、読んでるときに、答えをみつけて満足しているのかな。例えば、れてじゃだをみて笑いたいから、笑うポイントを探しながら見る。ある意味バイアスがある状態で視聴しているのだ。そうすれば、あんまりおもしろくないポイントでも笑うことになる。これがいいことか悪いことかはおいておく。ちょっと考えすぎてるな。これがいいことか悪いことなのか気にする必要なんてないわ。のだめカンタービレを読んでいて、自分の中の疑問の答えになりそうなところに目が留まる。そういう読み方になってしまったのだ。

APEXやVALORANTなどおもしろいのはわかっている、ただ自分の中に楽しむことを邪魔してくる誰かがいるのだ。

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