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私の思う『学び』と『勉強』の違い

 昨日、『なぜ学ぶのか』を語り合う会を運営した感想や考えの変容について綴りたい。まず最初に言いたいのは、「開催してよかった!」の一言!こんなに人によって意味付けが違って、その一つ一つに原体験が伴っているというのがすごく興味深かった。考えれば考えるほど、「これ!」といった答えがないからこそ、味が深まっていく過程が面白すぎた。これは、第2弾も絶対やりたい!いろいろな人の考え方に触れて、自分の考えを洗練したい。

私の思う『学び』とは…

 私は、会の最初は、『学び』は「選択肢を広げてくれるもの」としかとらえていなかった。しかし、会の最後に結論付けた私の『学び』の意味合いは、「体験・感覚・感情の集合体」だとした。本来『学び』は、「楽しいもの」「自分がやりたいからやるもの」「結果を出すためにやるものではない」「視野が広がるもの」「自分を成長させるもの」「生きている中での1分1秒のすべて」「言語化できない感覚・感情も含むもの」「WHY?から始まる問いで深まるもの」というような要素があると思う。机に座って作業的に何度も唱えて時間が過ぎていくのは、『学び』ではなく、「苦痛」でしかない。そうではなく、自分の興味関心のある部分を追究する過程で、自然といろいろな「わからない」「難しい」という壁にぶち当たる。その時に、自然と適切な方法や内容を取捨選択しながら学んでいて、いつの間にか「マン出たんだ!」という感覚になると思う。昨日の会で、「痛い」という感覚も、『学び』だという話を聞き、私の捉えてきた『学び』よりも、もっともっと広いものだと思った。


私の思う『勉強』とは…

 私は、『勉強』を「苦痛を強いるもの」「やりたくないものをやるもの」「作業」「机に向かって一人でコツコツやるもの」「何かの結果のためにやるもの(テスト100点取るため、単位を取るため、クラスの中で順位を上げるためとか…)」という意味合いを持って使っていることに昨日言語化していて気付いた。「楽しさ」は感じられず、ただただ時間だけが過ぎていき、自分の中で残るものがないことが『勉強』ではないのかなぁと思う。だから、耐久力や粘り強く取り組む力を目指したいなら『勉強』でいいと思うが、自分の目標の達成のために頑張るなら、『学び』であるべきだと思う。


まとめ

 『学び』という概念をもっと広く広く捉えることで、自分が今している感情や感覚、体験がいつの間にか目指す夢や目標に繋がると考えると、生きているだけでいつの間にか描く夢や目標を叶えるプロセスにつながっていると結論付けた。こう言う意味付けをすることで、私が日常何気なくしている選択や体験が大きな意味を持って実行することができ、人生が豊かになるきっかけになると思った。

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