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202207雲散霧消

1986実に脳裏に突き刺さる芸術が多数生まれた年。

1986オメガトライブ(のちにカルロストシキ&オメガトライブに改名)

XANADUシナリオ2の音楽はなんとも煽情的で抒情的でポエティックでゴージャスなのにアンニュイ
 GANDIC(BASEの伴奏)、
NULDOUR(陰鬱なアンニュイな響き)、
ALF(主人公の生い立ちを想起させる高貴ながらも数奇な運命)、
 ALCANEK(哀愁のレベル7)、
ALTEL(凄いバロック、明るい曲調ながらどこか物悲しい王族の世界観)、
KLEPSYDRA(爽やか爽快感、珍しくノー天気に明るい。陰がない)、
 RILVAN(あのドラキュラのイメージの妖艶さ、一瞬明るく転調するも実にドラキュラ)、
SHANGRI-LA(まさにラストステージ、シャングリラとは本来こういうものなのだろう 理想郷と聴くと悩みなんてなさそうだが、ニンゲンどのステージに行っても悩みは消えない)

乗鞍岳への旅の生き帰りの道中はなんどもシナリオ2を流した。

波田町超えていよいよ、上高地も近づき、秘境ムードが高まり、奈川渡(ながわど)ダムの辺り(特にバカデカい文字で野麦峠スキー場の案内看板など) が凄く昔から脳の深いところに刺さっている。

そこを疾走しながら聴くシナリオ2のバロックの調べたるやウニとキャビアとカワハギの肝をリッツに載せて 食べる贅沢の如きだ。

乗鞍高原からバスに乗る手もあったが、無料駐車場に騙されて岐阜県高山寄りの平湯を少し超えた朴の木平駐車場からシャトルバスに載った。 中部縦貫自動車道(安房トンネルないときは乗鞍岳の山頂近くを乗鞍スカイラインで超えて岐阜や福井、石川、富山に行ったものだ) 乗鞍岳畳平(標高2700M)の乗鞍神社の山岳神社の雄大さは剣ヶ峰や摩利支天岳に代表される23の峰をもつ乗鞍のシンボルだろう。

帰りは松本城も夕暮れに散策(小笠原氏のしぶとさが残る名城)

歴史は以下ウィキペディア引用 戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。 天文年間には甲斐の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。 1582年(天正10年)、武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵されたが、本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還する。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。天守の築城は対徳川の防衛のためだといわれている。 その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。 1727年(享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。 
以上ウィキペディアより

公私ともに実に色々ある7月であり(世の中ではロシアがドデカイ戦争始めて日本とロシアは戦後最悪な関係に。そうこうしたら統一教会絡みか安倍晋三暗殺される。伊藤博文みたいだ。犬養といより)悶々としまくっていたが、すべてが乗鞍剣ヶ峰での祈祷で雲散霧消して苦悩が一周して(喉元過ぎれば熱さを忘れるで)爽快感、むしろ7月中のビターな出来事は良いアクセントとなり 夏休み2日目と3日目ですべてが吹っ切れた。

ALCANEK(哀愁のレベル7)の深刻なつらいこころの有りようから 
ALTEL(凄いバロック、明るい曲調ながらどこか物悲しい王族の世界観)の華麗にして優雅な世界にワープしたのだ

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