スノウノオト 【短編音楽小説】
最後の曲を演奏し終わった時、オレはイラついていた。メンバーも同じ気持ちだったに違いない。会場の照明がつき、BGMが流れ、客が皆それぞれに満足した顔で店を出て行く間、誰も口をきかず、黙々と自分の楽器を片付けていた。
ここしばらくのバンドの演奏は、いつもこうだった。何かがずれている。うまくいかない。聴いている客にはわからないかもしれないが、自分たちが求めている音が見つけられなくなっていた。まるでそれぞれが、自分の方を向いて演奏しているようだった。
オレはジャズピアニスト。マルって呼ばれてる。元々ソロピアノを得意としていたんだが、同じ若手で飲み仲間のドラムのトシに、凄腕のベースがいるんでトリオを組まないかと誘われた。あまり気乗りがしなかったんだが、そのベース、コウジの音を聴いて、試しにやってみるのも悪くないなと思っちまった。
最初は新鮮だった。コウジの斬新なアプローチのベースラインに重ねて、トシが強力なビートでプッシュしてくる。オレもつい負けるものかと、思い切りアウトさせたフレーズを繰り出す。時にはまさに、何かを超えた瞬間がいくつもあった。
だけど今はもうそんな時は訪れない。まるで燃え滓のような音が辺りに散乱するだけだ。
〜〜〜〜〜
ギャラを受け取ったトシとコウジが店を出ようとしていたので、次のブッキングは…と言いかけて、言葉を飲み込んだ。二人の表情が全てを物語っていた。
「それじゃあな。」
「お疲れ。」
二人の姿が扉の向こうに消えると、オレはため息をつきながら椅子に座り込んだ。何も考えられなかった。
「いい出来だったわよ。」
不意に話しかけられて、オレは少し面食らった。客はもうみんな帰ったと思っていた。
「だけど、ちょっと迷ってる感じね。」
年の頃は70代くらいだろうか、年配の女性だった。いきなり痛いところを突かれて、オレはいささか不愉快になった。
「そうですかね。まあ、精一杯やりましたけど。」
適当にいなして帰り支度を始めていると、彼女は言った。
「どう?これからうちに来ない?夕飯まだなんでしょう?」
いきなりこんな誘いを受けるのは初めてだ。若い女性ならこちらからお誘いしたいくらいだが、さすがに気が引けた。だが腹が減っているのは事実だ。というか、ここ数日まともなものを食べていなかった。
「え…と…」
戸惑いながら答えあぐねていると、彼女は笑いながらオレの袖を引っ張った。
「大丈夫よ、取って食おうなんて思ってないから。そこの駐車場に車があるわ。さあ。」
〜〜〜〜〜
外は冷え込み、小雨が降り出していた。だが傘をさすほどではないと、コートの襟を立てながら小走りに駐車場まで走らされ、有無を言わさず車に乗せられた。
「ちょっと離れてるんだけどね。すぐ着くから。」
そう言って彼女はエンジンをかける。車内に流れ始めたのは、ビル・エバンストリオの演奏だった。
道すがら、問わず語りに彼女は自分の話をした。名前はサキという事。しばらく前にご主人を亡くし、一人暮らしをしている事。亡くなったご主人もジャズを演奏していた事。そしてその影響でジャズを聴くようになった事。
「彼はあなたの演奏、大好きだったのよ。もちろん私もね。」
懐かしむように微笑む。
「私も少しピアノを嗜んでいたのよ。でもね、クラシックしか習っていなかったから、ジャズの人って、どうしてあんな簡単な譜面で、あんなにもいろいろな音を弾けるのか、本当に不思議だったわ。」
小一時間も走っただろうか、そうこうしているうちに、車はどんどん山あいに入っていく。雨もいつのまにか、みぞれから雪に変わり始めていた。
「着いたわよ。」
林の中に建つ瀟洒な住宅の駐車場に、車は滑り込んだ。
〜〜〜〜〜
有り合わせのものしかないけどと言いながら出された料理に、オレは貪りついた。温かいスープにパン、そして生ハムなどを、ワインで喉に流し込む。
「そんなに慌てなくてもいいわよ、ゆっくりしていきなさい。」
笑いながらサキは来客用の個室を指さし、その部屋のベッドを使うように指示をした。そして窓のカーテンを開けてつぶやいた。
「この分なら、今夜は積もりそうね。」
そしてオレの方を振り向いて言った。
「明日の朝、丘の上の方に登ってみるといいわ。何かが見つかるかもしれない。」
含んだような笑みを残して、先に休むわねと、サキは自分の部屋に入っていった。
ワインの酔いで虚ろになったオレは、皿に残ったチーズを頬張りながらも、ライブの疲れが押し寄せたのか、次第に抗い難い睡魔に襲われていった。
〜〜〜〜〜
カーテンの隙間から差し込む微かな朝陽で目が覚めた。いつの間にか、ベッドに潜り込んでいたらしい。カーテンを開けると、薄っすらと雪の積もった銀世界が広がっていた。
サキはまだ起きていないようだった。寝起きの朦朧とした頭の中に、昨夜の彼女の言葉が浮かび上がる。丘の上に登ってみろだと?訝りながらも、手持ち無沙汰の時間を持て余していたオレは外へ出た。
雪は止んでいた。凛とした空気が心地よい。誰も踏みしめていない雪の山道を一人登っていく。結構しんどいな。そう思いながらも、いつの間にか無心で登り続けていた。
突然視界が開け、伸びやかに広がる平原に出た。真っ白な無垢の空間。全ての音が雪に吸われ、静まり返っている。軽い眩暈のような感覚とともに、自分の中に澱み溜まっていた音の記憶がリセットされた気がした。
その時、サラサラと粉雪が舞ってきた。まだ残る朝陽に照らされ、一粒一粒が宝石のように煌めく。その瞬間、
「聴こえる…」
そう、確かに聴こえたんだ。探していた音に。出会いたかった音に。
まるで音が美しい結晶となって、一つ、また一つとオレの元へ天から降りてきているようだった。粉雪を宙で掴みながら、オレはその音たちを大事に自分の中にしまい込んだ。
〜〜〜〜〜
サキの家に戻ると、彼女は窓辺のアームチェアに腰掛け、ゆったりと紅茶を飲んでいた。優しい微笑みをオレに向けながら彼女は言った。
「おかえりなさい。見つかった?」
全てを見透かしたかのような言葉に驚き、思わず聞き返した。
「え?…ええ、でもなぜ…」
訝しがるオレには答えず、黙ってアップライトピアノの上に飾られている小さな写真を指差した。昨夜は食べるのに夢中で気がつかなかったが、そこに写っている顔には見覚えがあった。
「ケン・ノグチ…」
ジャズメンなら誰でも知っている世界的ベーシストだ。パワフルなウォーキングラインと、それと対照的に繊細で柔らかな弓弾きのアルコの音は印象的だった。雑誌で組まれた追悼特集を読んだのを覚えている。すると亡くなったご主人というのは…
「彼も自分の音楽で悩んだ時があったのよ。でも同じように、雪の朝に丘に登って自分の音を見つけたことがあって…」
そして一枚のCDをオレに差し出した。オレの初めてのソロピアノのCDだ。この頃の自分の音を、オレはすっかり見失っていた。
「彼はいつも言ってたわ。こいつとはいつか一緒に演ってみたいって。叶わなかったけれどね。」
微笑みながらもどこか寂しそうな表情の彼女に、オレは言った。
「ありがとうございます。ちょっとピアノをお借りしてもいいですか?」
オレはピアノに座ると、さっき集めた音たちを少しづつケンの写真の前に並べていった。結晶になっていた音たちが、柔らかな響きとなって部屋の空気の中に溶け出していく。
オレも彼女も、その時確かに聴いていた。オレたちを優しく包み込むような、ケンのアルコベースの響きを…
[了]
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創作サークル『シナリオ・ラボ』1月の参加作品です。お題は『粉雪の出会い』
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