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本を読むと旅に出たくなり、旅をすると本を開きたくなる|前編

訪れる国や場所に関連する本を読むと、旅がより楽しくなる。
そして移動時間が多い旅では普段は読まない/観ないものにも触れやすくなる。

旅の途中に出会った書籍・映画を、旅の記憶とともに書き留めてみる。番外編です。


カナダ × 『the wilds 〜孤島に残された少女たち』

カナダ北部ホワイトホースでは、WWOOFサイトから連絡をとって肉牛&ハスカップ農家のもとへ滞在したのだけど、ここが結構ハードな環境だった。
滞在先として用意された木造の小屋は電気がなく、寒い時は薪ストーブで火を起こす。同じ国内にも関わらずバンクーバーで買ったSIMは圏外で使えない。常設のトレーラーハウスの小さなキッチンを共用で使う。料理に使う水やシャワーは2〜3日に一回、近くの川から直接タンクに組み上げてくる。コンポストトイレは小さな小屋の中に便座型に板が繰り抜かれているだけの簡易なもの。あまり衛生的でなく「気になるようなら森で土を掘って要を足して」とも言われた。

これは便座があるバージョン


休日には3、4時間かけてカヤックで川下りを楽しんだけど、近所にホストの家族以外の住宅はなく、「もしここで転覆したとしたらしばらくは発見されないだろうな…」とか一瞬頭によぎった。
決して快適とは言えない環境だったけど、海外のオーガニックファームがどんなものかを体験してみたかったし、オフグリッドな感じが経験できたのはすごくよかった。

そんなタイミングでAmazon Primeでシーズン2まで一気見したドラマ、『the wilds 〜孤島に残された少女たち』。飛行機事故を装って10代の女の子たちが無人島に打ち上げられ、絶望に打ちひしがれながら周囲との衝突と協力を繰り返しながら陰謀の核心に迫っていく、というのが大筋のストーリー。アメリカのドラマ。


10代の女の子たちがサバイバルな環境で生き抜くという舞台設定が、その時の自分たちの状況に少し重なる感じがして、いや全然違うんだけど、なんとなく感情移入してしまう。あわよくば参考になるサバイバルスキルがあるんじゃないか、なんて期待もしたけどそこはほとんどないのであしからず。

各回で登場人物である10代の子たちの過去が明らかになっていく中で見えてくる彼女たちの抱える悩みが、恋愛や家族絡みから宗教・人種・性的嗜好まで盛りだくさんで、日本のドラマだとこういったものはなかなか作られないよな…と思いながら、普段ほとんど見ない海外ドラマを新鮮な気持ちで観た。


キューバ × 『キューバでアミーゴ』

初めてのキューバ。実際に訪れてみて、「成功した社会主義」「音楽好きの陽気な国民性」との前評判はガラガラと音を立てて崩れさった。コロナによる打撃は観光立国をすっかり変えてしまったように思う。
それでも音楽一筋で生きてきたプロ・シンガーの立ち姿には震えるほど感動したし、エネルギー供給が追いつかず連日の停電が起きても動じずに家族でのんびり過ごす田舎の様子には心温まるものがあった。
いろんな場面を前に自分の価値観・世界観を揺さぶられる毎日で、キューバは気ぜわしかった。

ハバナの市場にふらりと立ち寄った時のこと。大量生産の土産店も多い中、手づくりのしおりなどかわいらしい作品が並ぶコーナーがあり、目を引いた。ふらふらと近づいてみると、そこにいた店主がやたらテンション高くて、最初は少し警戒した。
よくよく話を聞いてみると、店主は版画でアート作品を作ったりもするそうで、その製造過程を撮影した動画も見せてくれた。インスタで発信もしていて、精力的に活動していることが伝わってくる。

私たちが日本人だと知るとさらに彼のテンションが上がった。後ろの荷物スペースからガサガサと一冊の本を取り出し、「僕、日本の本に載ったんだよ!」と一冊の文庫本を見せてくれた。


カバーはなくページも擦り切れていて、タイトルも読めないくらいボロボロだったのだけど、それは彼がこの本を大事にしていて、いろんなところへ持ち歩いているんだろうということも容易に想像できた。
著者名を見て、どこかで聞いたことがある気がしたけどピンと来ず、あとで調べたら「ガンジス河でバタフライ」の著者だということが分かり、びっくり。

キューバ国内ではwifiにつなぐのも一苦労で、『キューバでアミーゴ!』を読めたのは、キューバを出国してイギリスに向かうフライトの機内だった。市場で会ったアーティスト、ミルトンは本の中で、想像以上に重要人物として登場していた。

約10年前に出版されたこの本で描かれたようなキューバ人の陽気さやはちゃめちゃさを、2022年の私の旅ではそこまで感じ取ることはできなかった。
それは社会情勢の変化によるものだったのか、現地の暮らしに軽やかに入り込む著者のコミュ力と私のそれとの違いによるものだったのか。きっと両方だと思う。

「変わった変わった」と書いてきたけど、変わっていないこともあった。旅の前にこの本を読んでいたら、高いモヒートをおごらされることもなかっただろうな…。


イギリス × 『エレガント・シンプリシティ』

イギリスでは以前から気になっていたシューマッハ・カレッジのショートコースに参加した。(シューマッハ・カレッジや参加した時の様子はこちら
ここへ行くにあたり、事前学習に読んだのがこの本。

創始者のサティシュ・クマール氏の著書はいくつもあってどれを読むか悩みつつ、2021年刊行の最新刊を選んだ。
  いまKindleを見返すと、この一説にマーカーを引いていた。

シンプルに生きるとき、人は〈つくる〉という行為そのものの価値を祝福し、その結果、成果、達成したコトやつくられたモノなどへの関心から離れています。美術や工芸によって、私の必要は満たされても、貪欲のとりこになることはありません。つくるという過程で、つくり手としての私は、よろこび、充実感、愉しさを経験します。

『エレガント・シンプリシティ』より

読んだ時に何を考えていたかは覚えていないけど、シューマッハ・カレッジで過ごす中で「私はもっと手を動かしたい=〈つくる〉ことをしたい」と感じた瞬間があったことはよく覚えている。
そして帰国してからのこの2ヶ月ほど、せっせと庭を開拓している。手を動かしすぎて腱鞘炎みたいになった。

でも改めて思うこともある。
〈つくり手〉であることは今後も手放したくない。畑がないところで暮らしたいと思えなくなった自分もいる。
その一方で、「自分の暮らしを満たすだけでいいの?」という心の声も聴こえてくる。この里山が、この国がいかに豊かであるか、世界を巡って痛感した。「その先」をしばらくずっと考えてる。まだ答えは出ないけど。


イタリア × 『ライフ・イズ・ビューティフル』

イタリアの中西部、チンクエテッレの夜間学校の生徒向けに、日本や私の住むまちの話をしたときのこと。
ひとしきり話し終えたあとの質疑の時間。「旅での学びは?」と尋ねられて、イタリアでのアペリティーボ文化が印象的だったと答えた。
アペリティーボというのは、日本でいう「ちょい飲み」で、仕事終わりにバルに立ち寄って職場の仲間や友人と一杯だけ呑むもの。だらだらと何杯も呑まない。一杯だけサクッと引っかけて、家に帰る。食事は家で家族と食べるもの、という価値観があるからだという。
「付き合いがあるんだよ…」とか言いながら二次会、三次会と続く飲み会からようやく帰宅する頃には子どもは既に寝ている…。なんてシーンがありふれた日常としてドラマやらマンガやらで描かれるような日本とはずいぶん違う。

暮らしを大事にしているのが素敵だと思った。
そんなことを言ったら、生徒の1人である60代らしきおじいさんがニコリと笑って「イタリアは『ライフ・イズ・ビューティフル』だから」と一言。

ずいぶんかっこいいこと言うじゃない、と感銘を受けていたのだけど、そういうタイトルのイタリア映画があるのだとあとで知った。
これは見なくては、と思い、すぐに視聴。
※ 現在AmazonのPrime Videoでは観れない模様。


舞台は第二次世界大戦下のイタリア。強制収容所に入れられて過酷な日々を過ごしながらも、息子のために嘘をつき続け、明るく振る舞う父親の姿。ハッピーエンドにならない悲しさと託された希望と。

辛いけど美しい。美しいけど辛い。


イタリア × 『顔のないヒトラーたち』

私たちをホストしてくれたイタリア人の女性は、しばしば自分の国についていろんな話を聞かせてくれた。キリスト教の特権階級と労働者階級の対立や、貴族階級が解体されて土地も減らされた過去など。
悲しいかな、イタリアの歴史が頭に入っておらず、いまいちピンと来ない。ドイツの「ヒトラー」「ナチズム」に比べ、イタリアの「ムッソリーニ」「ファシズム」についての理解が乏しいことに気付かされる。

そう思ってファシズムを題材にした映画を探してみるも、いまいち見つからない。検索するうちに行き着いたのが、この映画『顔のないヒトラーたち』。結局ドイツ映画だけど。実話を元にしていると知り、気になってローマからの帰りの列車で観た。

ドイツ人のナチスドイツに対する歴史認識を大きく変えたとされる1963年のアウシュビッツ裁判を題材に、真実を求めて奔走する若き検事の闘いを描いたドラマ。(中略)様々な圧力にさらされながらも、収容所を生き延びた人々の証言や実証をもとに、ナチスドイツが犯した罪を明らかにしていく。

映画.com


まず、アウシュビッツで起きたことを当時のドイツ国民の多くが知らない状況にあったことに驚いた。(これって有名な話なんだろうか。書けば書くほど自分の無知さが露わになるので恥ずかしい…)

「ヒトラー亡き今、過去の歴史と訣別して未来へ進んでいきたい」という戦後を生きる人々。対して、現実を伝えるべきだと正義感に燃える検事とユダヤ人の検察長官。
戦時中の雰囲気に飲まれて人間の残忍性が表出してしまったことを、誰が責めることができるのか。しかし真実を隠したまま進んで良いのか。理想と現実と、未来と過去と、世間と家族と。問いが行ったり来たりする。

うん、観てよかった。
この映画を観た2022年12月頃、SNSを開くと関東大震災時の朝鮮人大虐殺をめぐって歴史修正主義をキーワードに強い批判が繰り広げられていた。生きていない時代を知るには史実が頼りなのに、あとになって自分たちの都合のよいようにねじ曲げないでほしい。


思いがけず長くなったので後編へ続く。

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