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受験英語の神様?

前回「受験がなかったら、こんなつまらない勉強などしない」と書いた。私が受験を経験したのは、遠い昔である昭和50年代後半だ。受験のため夜遅くまで起きて勉強した内容は、ほとんど忘れている。数学の微分、積分の概念を分かりやすく説明しろ、と今言われても、もちろんできない。

大岡昇平『成城だより 付・作家の日記』を最近読んでいたら、氏が英語の入試問題に、ひどく憤慨している箇所があった。

英語も僕が三十五年前にやったのと同じ種類の難問が並んでいるのに一驚した。こんなバカな英語を使う人間は、世界中どこにもどこにもいない。十八世紀以来の気取り屋、偉がり屋、もったいぶり屋が残した悪文の見本である。

成城だより 付・作家の日記

何の必要があって、現代の日本の子供が、こんなものを学習しなければな らないのか。試験問題がクイズ化したからだ。低能な試験官が古い問題集を図書館で写して来ただけなのだ。

成城だより 付・作家の日記

1958年1月に書かれた慧眼の指摘だ。大岡氏の論法に従えば、大正時代から悪文の見本のような英文が出題されていたことになる。

入試英語のことで言えば、私は予備校教師だった伊藤和夫氏の英文解釈教室を読んで眠たくなった記憶がある。英文解釈教室では、下のような文構造が複雑なもったいぶった英文がこれでもかとばかりに掲載されていた。それに対する日本語解説も、一読しただけではちょっと何を言っているのか分からない悪文だった。

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英文解釈教室


そして、彼の別の参考書で、英語の和訳模範例とされるものは、こういう調子だった。

美しいということは、無視することがほとんど不可能な推薦状のようなものである

こんなわざとらしいというか不自然な日本語、田村正和だって恥ずかしくてドラマの中でセリフとして言えないだろうな、と当時感じた。大岡氏がいう気取り屋、偉がり屋、もったいぶり屋が残した悪文の見本だ。入試の答案にこれを書いたら、何言っているんだコイツとばかりに採点者から×印をもらうことになっただろう。このように、伊藤氏の参考書は、難しい内容を、さらに難しく書いて、読者に無駄な時間をかけさせるものだった。当時、そして現在でも、彼の参考書は評価が高い。どこか違う惑星の世界にいるような感覚に襲われる。

私は、予備校教師に限らず教師に求められる能力として、大学生が習うような高度な内容を、小学生でも理解できるようにかみ砕いて話すことができるかどうかがあると思う。
そして、そのような説明力を持つため、絶えず研鑽を続けることが、教師の職責だとも考える。
ごく当たり前な本質論だと思うが、みなさんはどう感じるだろうか?

ところで、伊藤氏の授業風景の動画を始めて見た。冴えないおじさんが、せき込みながら、ぼそぼそ一本調子で話しているだけではないか。これでは、生徒に寝てくれと言わんばかりだ。皮肉になるが、三単現のSを知らず、アルファベットさえも満足にかけない生徒が集まったスクールウォーズとか今日から俺はみたいな学校で、彼が動画の調子で授業を行ったらどうなっていただろうか?生徒のひとりが、「おっさん、もっとはっきり、もっとメリハリをつけて話せ」とかヤジを飛ばし、はやし立て、授業は成立しなかったと思う。それにしても、彼は、ご自分の英語の発音をどのように認識していたのだろう。取り巻きの人は、ネイティブが担当する発音を直すレッスンを受けるよう、彼に助言しなかったのか?駿台では、助言もできないような絶対的存在として崇められていたとしたら、実に滑稽だ。ちなみに、彼のことを伊藤師などと呼んで、はるか昔の受験勉強を懐かしんでいる人々がいる。どういう精神構造なのだろう。私にとっては、アナザーワールドの住人達だ。

受験英語の神様と崇拝されている御仁が、この程度であったことを確認すると、「受験がなかったら、こんなつまらない勉強などしない」と自分が昔思ったのが、正常な感覚だったと安堵した。


追記 2023/3/4
こちらの記事、たくさん読まれているようだ。
ありがとうございます。
最近のニュースによると、日本人の英語力は世界112ヵ国中78位。
英語教育のカリキュラムが文部科学省によって何度も改編されても、この有様だ。
もっとも、日本人が日本国内で生きていくためには、英語は特に必要がないことが、お粗末な結果の根本原因にあると私は思う。





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