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「"義務"教育で、"主体性"を育む」ってどういうこと?(これからの「学び」の話をしよう)

今回は小学校教員を中心とした教育関係者が、「これからの学び」を考察するという本を読んだので、久々になってしまいましたが投稿します。

本日の本

前回の投稿から約3ヶ月、この間にもGIGA,探究と聞かない日はなかった。一方で、教育現場はどのように歩みを進め、変化したのか?本書は、小学校を中心に現場実践を行う著者3名が、寄稿+鼎談のような形で、実践での知見や体験を元にしながら、これからの学びを考えるという趣旨の本である。

「主体性を育む」というと聞こえは良いが,,,

 タイトルは「これからの学び」ということだが、第1部から「子どもの『学び』と主体性」という題となっており、あくまで文科省が掲げる理念をどう実践するか、ということがベースにあるように読める。実際、第1部の前半では、「我が国における主体性」という章もある。また文科省の掲げる3つの資質能力などの解説についても、一定量割かれている。

 その主体性が必要な背景から、主体性の意味、育むための学び、その学びを支援する教師の役割、ICTを使うことでより可能性が広がり,,,というようなトーンで展開されていく。ただ、そもそも義務教育として通っている小学校で、「主体性を育む」ということを振りかざすことに多少の違和感が生じる。具体的には下記である。

  • 学びの主体性を育むのは、学校の授業が適切なのか?

  • 学校の授業で、とした際、学習内容や学習教材、学習環境が規定されすぎていないか?

  • 授業で育む主体性は、学びに対する主体性か?その授業に対する主体性か? 後者だとすると、先生の評価基準に対する主体性を発揮してるだけではないか?

  • 「この授業で主体性を育めました」というのは、結局言ったもんがちではないか?

主体性が発揮されないのはなぜか

本書に出てくる実践例はどれも興味深いものが多い。授業展開例や、実際のワークシート、ルーブリックなどである。「『この授業で主体性を育めた』というのは、結局言ったもんがちではないか?」と大変失礼なことを前で述べたが、一方でおそらく主体的に取り組む児童も多いと推察する。

 だからこそ、このような授業実践でも「主体性を発揮しない(できない)」児童の共通項などまで踏み込んで欲しかった。例えば本書の中の事例として、ルーブリックベースの評価基準で「Aを目指してもBを目指しても良い、その児童の選択が重要」というものがある。もちろん、旧来的なテストの点数ベースの評価を改善することに留まらず、目標自体を児童が選択するという取り組みは大切に思う。ただ、学びの自己肯定感はAの方が高いだろう。どれだけ「一人一人違っていい」と言っても、そこではAを目指す児童と、Bを目指す児童の差が明確に現れる。
 あくまで上記の観点はone of themでしかないが、「主体性を発揮する上での学びの自己効力感」など、授業展開や、見取り、学習支援の工夫以外にも考慮すべき点はまだまだあるように思う。

結局、「これからの学び」とはなんなのか

読後感として感じるのは、本書は「これからの学びの話」ではなく、「(文科省が示す)これからの学校の学び」ということだ。もちろん、学校の学びの影響は大きく、極めて重要なものだと思う。

 一方で、それこそ学習者中心の視点で考えてみると、以前と比べて学びを取り巻く社会環境は大きく変わっている。以前は「与えられたことを頑張ると学歴や就職で報われた」が、これからは「与えられたことを頑張っても学歴や就職で報われるとは限らない」ような状況だ。だからこそ、自分自身を見つめ、どうありたい/なりたいのかをぼんやりでも描き、そこに向けてどのような学びに取り組みたいのか、を考えることが大切なのではないか。もちろん、学ぶ過程でありたい/なりたい姿を更新しながら、だ。

 そう考えた時、これからの学びとは「他人の評価基準を高めるための学びではなく、自分なりの評価基準を作り、自分なりに高い評価を得ていくための学び」と言えるのではないか?本書の事例で、教員が提示したルーブリックに対して児童が目指したい評価を決めて学習に臨むものについて前述した。しかし、目指すべくは評価基準自体=ルーブリック自体を児童が作るような授業ではないだろうか。

 あくまで、上記は私の考える「これからの学び」だ。こうした議論を児童生徒や教員間、保護者も含めて出来る学校は良い学校の良いように思う。是非本書が、様々な場所での議論のきっかけになってほしいと願う。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
是非ご感想など伺えれば幸いです。

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