見出し画像

葬列#1【小説】



太陽がだらだらと爛れて赤い体液をアスファルトに滴らせている夏の終わりに彼女は死んだ。


 国道近くの緩やかで長い坂道を、黒ずくめの一行が陽炎に煽られるようにじりじりと登っていた。まるで蟻の行列が戦利品を抱えて帰るように、先頭からの何人かは骨壺や遺影や献花を抱えて、悲しみよりもうだるような暑さのために皆頭を落として歩いていた。彼はその葬列の一番後ろを、似合わない喪服を着て不貞腐れたようについていく。



 こんな暑い夏の日に死ぬような、そんな女ではなかったはずだ、と彼は憤っていた。



お前はいつも絶望していたのだから、もっと暗くてどうしようもないようなやりきれない夜に死ぬとばかり思っていた。何だってこんな暑すぎる夏の日に死ななければいかなかったのだろうか。


一行は長い坂を終えて、葬儀場に付いた。まるで胡散臭い新興宗教のメッカような無駄に白くて大きなホールムは人間の温かさや脆さをむしろ助長する、なんてことがないくらいただただ白くて巨大だった。喪服達はめいめいが安堵の声を漏らして、汗を拭い、談笑しながらホールの中へ入った。彼もそれに続いた。
そのうちの何人かは祭壇の方へ行って、花や装飾や遺影を眺めていたが、彼は気が乗らないのでロビーの隅に寄りかかっていた。葬儀場はピカピカに磨きあげられ、わざとらしく清潔で、彼は居心地悪く、足元にやっと見つけた小さな埃を革靴の先で弄んだ。



 彼は彼女の葬式に大勢の人が来ていたので拍子抜けしていた。彼は彼女のいつも寂し気に縮こまっていた姿ばかり見ていたので、てっきり彼女の葬式には家族くらいしか来ないものだと思い込んでいた。その為、彼の前で泣いている、彼と同じように似合わない喪服に身を包んだ若い女や外でたばこを吸っている若い男を信じられない気持ちで見ていた。



 お前のことを何にも知らなかったのだなあ、と彼は嘆いた。

 彼女は彼女についてあまり多くを語らなかったし、彼もあまり深く聞くことを躊躇って、何となく寂しい夜更けにはただ彼女の頬の産毛を優しく不器用に撫でるだけだった。



 彼は彼女の家族や友人にさえ会ったことがなかった。彼らは端末の上で知り合い、実際に会ってからも二人だけで世界を完結させてしまっていた。それはまるで神様も見ていないような地球の裏側にいる気分で幸せだったけれど、今思うと、俺達、まるっきりの他人だったのかもしれない。



 とうとう式が開始され、彼は一番後ろの一番端っこの席に場違いな腰を下ろした。隣には彼と同じくらいの年齢の女が泣き崩れていた。



 この女は一体お前とはどういう関係だったんだろう。俺よりも泣いているこの女にお前は俺に対して以上のものを託したことはあったのだろうか。その隣の若い男は。まさかお前と寝たことがあったんじゃないかしら。前の席の女、その隣の女は。お前にとってどういう存在で、どういう立場でここへ集っているのだろうか。一体、俺はお前にとって何者だったんだ。



 焼香の列は故人とは関係なく規則的で、人々もむしろルールから逸れないことのみに気を遣る、意味のない行為だった。彼の番になって、やはり彼も前の喪服の所作を盗み見、自分の隣の喪服の所作を盗み見真似ながら焼香を済ませ、いよいよ遺体と対面することになった。


 彼は彼女が最後もきっと可愛らしくエロティックに棺桶に納まっていることを願い、そっと覗いた。


 棺桶の中には白い顔が静かに横たわっていた。眠っているようでも、死んでいるようでもない、冷えた肉の塊が人間の女を模って図々しく寝そべっている。クリスマスの翌日、昨晩のフライドチキンが鎮座するダイニングテーブルの趣味の悪いテーブルクロスの花柄を思い出す。



 彼は棺桶の中の遺体が彼女ではないと思った。思っただけでなく、確かにそう見て取り、ひどく混乱した。遺影と記憶の中の彼女は一緒で、遺影と棺桶の遺体は一緒だったが、記憶の彼女と棺桶の遺体は確かに別人であった。他の人はというとそんなことないように振舞っていた。隣の女は棺桶の遺体を見て先ほどよりも酷く泣き、その隣の男に背中をさすられていた。彼女の家族らしき婆や爺も、彼女の母親と思しき、年老いているが美しい女も、ちゃんと彼女の葬式であるかのように振舞い、成立していた。
彼は後頭部が溶け出し、それがすぐさま冷房に冷やされてどろどろと脊髄のほうに流れるのを感じながら、棺桶の遺体から目を離せず、我に返ったのは後からやって来た若い男に肩を叩かれた時だった



「これ、本当にあいつか?」



 男はそれを聞いて同情の目を向け首を振り、彼の肩を抱いた。



なんてわざとらしいのだ。そんな演技はやめて本当のことを教えてくれ。お前はどうして自分の葬式にいないのだ。何でお前もお前以外も、棺桶の遺体がお前ではないのに平気な顔をしているのだ。



 式が終わり、彼は外へ出て、喫煙所に座り込んで足元の蟻を眺めていた。彼は混乱し、いじけて、五歳児になった。蟻を一匹一匹潰して、汚くなった指先を近くの笹垣に擦り付けて、この世の生命倫理を学ぶ前のような純粋な残酷さを持っていた。

 そんな彼の元にさっきの若い男がやって来た。



なあおまえあれだろれいのせっくすふれんどだろしってるよあいつはまるでかれしのようにおまえのことをあいしていたしおまえのことをよくじまんしていたよあいつのかれしはほらあそこにいるふとったやつだおまえみたいなおとこまえとなかよくできてあいつうれしそうだったぜまあしょっくなのはわかるよなにせいきなりだったもんなだからありをつぶすのはやめろよほらあんまりこういうとこでそういうことするのはよくないからさ



 彼には男の話す言葉が全く理解できなかった。



なあきいてるかたてよはなしならおれがきくよだからたったほうがいいよみんなへんなめでみてるからさあいつもかなしむよいっつもくーるだったおまえがそうしきじょうでありつぶしてるのみたらびっくりしちゃうぞほらどうやってきょうきたんだえきまでおくろうか



 男が彼を起こそうとしたが彼は男の手を払った。その手が男の顔に偶然当たり、男は酷く痛がった。その反応がそれはそれは彼の癪に障ったので、彼は思いっきり振りかぶって男の面を殴った。彼のたおやかな拳が男の頬の骨に千分の一の確率でヒットしたのと、誰かの携帯電話からエンドレスサマーヌードが流れるのと、潰された蟻たちが成仏して三途の川の前で「これどうやって渡んの?」と言ったのと、彼が爆裂なスピードで走り出したのはほぼ同時だった。



 彼は葬式で男を殴って逃げた。



だからお前は恋人になれなかったんだ。



彼の背後で男の声が聞こえた。



お前はやっぱりこんな夏の日に死ぬ女じゃなかった。お前はもっと奇跡が起きそうな素晴らしい夜に死ぬべき女なんだ。なあ、お前は今一体どこにいるんだよ。