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我が子の幸せを願ったら読んでほしい話

*今回はややセンシティブな内容含みます。


【増えていく教育相談に思うこと】

最近、老若男女・個人法人問わず教育系の質問相談のお問い合わせを受けることが多くなりました。

背景は様々ですが、コロナによる世界変化に起因するものが多いなぁ…と感じます。世界がどんどん不確実性高く予測不能になっていく中で、学びの持つ意義や価値は益々高まっているようにも感じる変化です。

でも…というか、やはり…というか、特にお母様のご質問や相談は「受験で得をするのか否か?」に引っ張られすぎているように感じるものが圧倒的多数です。

国際バカロレアの話をすれば「それは大学受験にどれくらい有利なのですか?」

大学受験が変わる話をすれば「何をすれば対策になりますか?」

レッジョエミリアの話をすれば「でも日本だと受験には不利になりませんか?」

お子様への未来期待を聞けば「人並みに生活ができて、普通に幸せになってくれれば…」

・・・なるほど。

え?普通ってなんですか?

いつ聞いてもなんだか気持ち悪さというか、モヤモヤが残ってしまうところです。勿論、こんな世の中ですから何も不安がない人の方が少ないでしょう。こんな世の中でも幸せに生きていって欲しい。その思いにはとても共感します。

でも、その思いは「未来への期待」なのか「親の世間体」なのか?

そんなことがとても気になる。教育の大切さは増す一方で、旧来型の価値のまま拗れていく人も増えるのかな…なんとも皮肉なものです。

そんなことを考えることが多い最近、ある教え子のことを思い出しました。

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【秀才の涙】

僕にはたくさんの教え子がいます。本当にちびっ子の頃からずっと一緒にいて今では立派な大人…という人もたくさんいます。皆思い出多き子達なのですが、その中でも特に思い出に残るちびっ子というのは大体問題児(笑)

でも今回シェアするお話に登場するアキト(仮称)は、いわゆる問題児とは真逆の子。小学5年生の頃からずーっと一緒に、高校受験を終えるまで学びました。彼はとにかくなんでも優秀。勉強もよくできる。スポーツも万能。学校ではリーダー的存在で、塾でもいつも明るくクラスの中心にいました。

そんなアキトでしたが、中学3年生になり受験が近づくと、僕は彼に違和感を感じるようになりました。彼の目の奥に不思議な闇みたいなものが見え隠れする。その正体が何かはよくわかりませんでした。やがて受験勉強が本格化する秋に深刻なスランプに陥ってしまいました。原因はわかりません。でも確実に目の色は褪せてきている。不安や焦りとは違う、精神的な何かだ。どうにかして闇を払ってあげないと…どんどん変わってしまう彼に、僕は焦りました。

時間があればアキトに寄り添い、話を聞いてみる。そして色々と考えまた問いかける。その繰り返し。ある瞬間、ひょっとしたら…と気づいたことがありました。

アキトは親の期待・学校の期待・世間の目を異常なまでに意識しているのではないか?僕はある日の授業後にアキトを呼び、面談部屋に連れていきました。ゆっくりと彼に声をかけます。

ソガ氏「…あのさ?アキトが親を思う気持ちはすげえなって思うのね。みんなの期待に応えたいという気持ちも、俺なりにはわかっているつもり。」

アキト「・・・」

ソガ氏「でもね?受験て誰のためのものだろう?なんのためにあるんだろう?」

アキト「・・・まあ、僕のためでもあります。」

ソガ氏「俺もそう思う。だからさ?君の成長と幸せに繋がらないなら、結局お父さんもお母さんも悲しいだろうし、俺も悲しい。」

ここまで話したところで、アキトは堰を切ったように号泣。しばし号泣。それを黙ってじっと見守っていました。その日以降本来の自分らしさも思い出し、少しずつ自分のペースを掴みなおしていきました。

結果、受験は誰もが羨むような名門校への逆転合格で幕を閉じました。

断っておくと、アキトのご両親は決して彼の自由を束縛したり、何かを強制するような方々ではありませんでした。むしろその逆。本当に素敵なお母様・お父様でした。彼の受験も、誰よりも彼を尊重してくれて応援してくれて、逆転合格した時はアキトよりも先にお父様が僕に抱きついてくるくらい(笑)情に豊かなご両親でした。

僕が異動するにあたりご挨拶した時も、お父様は目に涙をいっぱい溜めて、大きな花束と鉢に植わったサボテンをくれたのです。そのサボテンは今も実家で、毎年花を咲かせています。

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【再会は、思いもよらず】

アキトが受験を終えてから数年後、思いもよらない形で彼との再会を果たしました。ある日テレビで「大学生が初対面の女性に酒を飲ませて暴行」といった類のニュースが流れました。

(やれやれ…また大学生がやらかしたのか…)

そのくらい軽い気持ちでニュース音声を聞き流していましたが、そのニュースで「過ちを犯した人」の名前が流れた時、僕は驚きで固まってしました。久々の彼のフルネームを、テレビのニュースで聞くこととなったのです。

彼と接点がなくなってからも風の噂で様子は聞いていました。聞けば大学も非常に優秀な、世間一般でいえば誰もが羨むような大学に入ってもいました。

なのに一体なぜ?僕は考えました。

いくつか話を聞きましたが、おそらくあの子は「周囲の期待に応えようとして壊れかけていたあの頃」に戻ってしまったのでしょう。そして、周りにはそんなことで苦しむ様子を察して声をかけてあげられる人がいなかった。そしてお酒を飲んで酔っ払ったことが引き金になって、ストレスの歪みが一気におかしな形で放出されてしまった…。

僕はこの時、なんだか自分の無力さを感じたのです。結局、教育という場でしてあげられることってなんて少ないんだろう…と。

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【そして未来は勝ち組よりも、価値組へ】

「〇〇という学校に行ったのだから、将来は△△であるべき」

「男は◯歳になったら××すべき」

「女性は◯歳までには結婚しないとまずい」

「〇〇という職業は世間的に安パイだから勝ち組」

どんなに世界が変わったといっても、まだまだこういった「工業社会型固定概念」とでも言うようなものは山ほど存在し、この謎の概念に脅迫されている人はなんと多いことか…

不安や劣等感は幾つになっても・どこまでいっても拭えないのかもしれません。

少なくとも僕は常に不安です。まあ「前向きな不安」と思っていますけど(笑)

「本当にこれでいいのか?」「まだやれることがあるんじゃないか?」これはしょっちゅうあっても良いはず。でもそれが誰かと比べる・見えざる大衆の目からOKをもらうため…となると、精神的に明らかに不健全です。 


僕たちはいつから大人になるのでしょう?

上に書いたようなこと、年を重ねたからといって達観することでもありません。

もし大人になることが寛容になることであるならば、

もし未来はダイバーシティが大切だとかいうならば、

大人になったとは到底言い難い社会があちこちに転がっています。

「肩書き」「常識」「世間体」は、あいも変わらず僕達もちびっ子達も蝕んでいるのです。未来がどう進んでいっても、たくさんの「?」とか、不条理と感じることが出てくることは、そう簡単には避けられないかなぁ…とも思う今日この頃。

そんな不条理をパワーに変えて、超えていくためには?

今僕が考えることは2つあります。1つは「幼稚園児でもわかる、ごくシンプルな決まりはみんなで守る」それは例えば、たった4つの決まりごと。

 ◇誰かに何かをしてもらったら「ありがとう」
 ◇自分がしたことが間違っていたら「ごめんなさい」
 ◇わからないことがあったら「ねえねえ?質問。あのさ・・・」
 ◇相手が嫌がること・迷惑になることはしない

この4つさえ守れば後は自由。それが2つ目の要素。

人と比べちゃう自分がいてもOK。やりたければやれば良いし、やりたくないものを無理しすぎない。嫌なことでも必要と思えばやれば良いし、立ち止まっても、寄り道しても、大きく変えてもOK。

その全てが「より良い自分でいるためには?」がベースならなんでも良いのです。

そうやって、勝ち負けよりもオンリーワンな感じを目指す。どこかの歌に

ナンバーワンになれなくてもいい もともと特別なオンリーワン

ていうフレーズがあったり、またある歌には

ナンバーワンよりオンリーワン? いや、ナンバーワンかつオンリーワン!

ていうフレーズが出てきたり。これ、どっちも正解。その具体を探し出し描き切ることが人生の醍醐味のはず。

これこそが世に言う「価値」なのだと思います。ならば「勝ち組」を目指すのはやめて「価値組」を目指した方が断然良い。辛くても楽しくなりそうですよね?

そしてこの軸で動くと、いつでも・誰でも・どこからでも学び合えるようになるのも大きな特徴だと思うのです。学ぶという行為に壁がなくなる。


だから。我が子の幸せを願い、たまたまこの文を読まれたあなた様。

少しだけ、僕たちも一緒に世界の見方を変えてみませんか?

5年前の常識も通じないならば…考え方・学び方・見方を変えたほうが断然良きだと、僕は思うのです。

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