見出し画像

宮沢賢治と自分と ー君を超えていけるかー 第二章


『二上山』
二上山-車窓より
秋にすすき畑だったところに菫が咲いている。
穴虫峠を越え、奈良に入るとすぐ左手に二上山が見える。
「大坂(おほさか)を、我が越え来れば、二上に、黄葉(もみちば)流る、しぐれ降りつつ」
万葉集に、峠を越えて二上山が拝められるその神秘的な美しさと自然観を唄ったものがあった。
二上山はこの辺りで唯一、火山が冷えてできただけあって、山の形が綺麗な三角錐だ。
その美しい山を見ていると昔の歌人の情景を、自分も追体験している、というと野暮ったいが。何百年も前の歌人と同じ景色を見て、同じような感動を懐いて。
詩人の情緒と自分の情緒が重なった事への尊さというか。自然観を通して、誰にも分からないであろう、詩人と自分との間に世界が生まれたというか。
そこに云われようのない喜びを感じる。
他人の見ている風景でも、私にも大方分かるんじゃないか。或いは、私の見ている風景をこの人は、同じように大方見えて、分かってくれるんじゃないか。という想い、希望は、恋という感情と近い氣がする。
貴方の見ている景色が氣に入ったから私は貴方に恋をした。
という氣持ち無しに、少なくとも私は恋をしない。

画像1

二上山-いざ上って
山は良い。今日は山に入って獣道に入ってしまい遭難しかけたがそれが良い。
全てが自由だ。
都会だと迷ったところで、どうにかタクシーでも拾えれば帰れるが、山だとそうはいかない。
現代人はそのどうにか帰られる環境が整い過ぎていて、実は知らぬ間に考えが狭まっている氣がする。
早い話が、安全な道で溢れ過ぎていて、想像力や思考力、新しいものを生みだす力みたいなものが抜け落ちているのではないだろうか。
そして、それが抜け落ちているものだから現実が淡々と毎日の繰返しでしかないように感じられて、知らぬ間に生きる鋭気までも失っているのではないだろうか。
じゃあどうすれば良いのかと聞かれれば、私は何事においても同じ道をなるべく通らないようにすれば良いのではないかと思う。路地を一本ずらすだけでも世界の見え方は変わってくる。綺麗な花が咲いているかもしれないし、怖い犬が居るかも知れない。そういった新たな発見をする中に貴方の可能性があるのではなかろうか。

『頭が真っ白になるときがある』
ひとつの事ができないだけで、恐怖心から頭が真っ白になる事がある。
できる事をできなくする、精神的な負担とは何なのだろう。
強い緊張やストレスが問題なのだろう。そのときに何かこう、できない事に自分の心が引っ張られるというか、できなかった失敗を改善してけろっと忘れて次へ向かう事ができないというか。
何処か氣持ちが切り替わらない。
それどころか次の失敗への不安が大きくなり、それがプレッシャーとなって余計に上手くいかなくなる。
不安が生まれるその心とはいったい何だ?
強いて言えば心が、トラウマにしろ、良い出来事にしろ何かに固執しているからそう言った事が起こるのだろう。では何故人の心は何かに固執するのだろうか?
それは当人の環境要因が大きく、文化や家族構成、教育などが大きな影響を引き起こす。
じゃあ、戦争中や災害の最中に育った人や小さいうちに事故にあった子にはどうすれば良いのだろうか。
その固執しているものを変えるというのが、一番楽だ。
それこそ神にもすがる想いで、何かを信じ、今までとは違う新たな価値観に固執する。
但しそれは、宗教であって医学ではない。
使っている頭の部位や呼吸を変えるというのが、今思い付く中で最も明暗なように思える。
案外、これは上手くいく。
但しこれも盲信し過ぎると、自分を見失う。
学問でも、科学でも、薬でも、毒にもなるし、良薬にもなるからこういう物は難しい。
宮沢賢治が修行をして、科学を毒にしないようにしたように、私自身も自分の身を呈して、体験し、治療に当たらなければならない。

『鹿』
鹿は良い。彼らは懐かないから良い。
だいたい、懐こうとしてくるヤツなんて利益が欲しいか、こっちに依存して上手く自分の地位を確立したいだけだからロクな奴じゃない。
逆に懐いて欲しい、誰かから好かれたい、と思って承認欲求を求めて行動する奴も同じくロクでなしだ。
懐かれたいから、好かれたいから行動するのは、自分の為にやっているのであってそこに相手は居ない。その事による状況の善し悪しは一旦置くとして、相手に独りよがりの気持ちをぶつけている事、自分が主導権を持って相手が好いている姿を自己実現したい事に変わりない。
良いことなんて言うものは自分の為にやるしかない。自分が相手に手を貸したいと思ったから貸すのであって、それで相手に見返りを求めると大きく間違える。
この前も地面にひっくり返って動けなくなっている虫を木の枝に戻したが、別に虫に何かしろと言うのは間違えで。私がここで見過ごしたくなかったから、勝手に木の枝にとめただけだ。
私も残念ながら、好かれたいという気持ちをどうしても持ってしまう時がある。それでも、それを打ち消すくらい相手にできる限りの敬意を払い、自分の欲求をなんて下らないものだと高を括り、素直に接するようにしている。
日々、修行な訳で。良いことはさりげなくやり、その事は誰にも言わず、潔く忘れるくらいの自分でありたい。

画像2


『裏返った人物の尊さ』
『咲』という架空の麻雀をテーマにした漫画がある。そこの登場人物がとても興味深い。
宮守女子高校という岩手にある架空の学校が出てくるのだが、その学校の留学生以外のキャラクター全員が柳田國男の『遠野物語』を由縁としている。
それも作者の設定が細かく、登場人物のひとりひとりに民間伝承である『遠野物語』のストーリーが編み込まれている。
例えば、「小瀬川白望(しろみ)」という登場人物は『遠野物語』に出てくる白望山(しろみやま)の「迷い家」がモチーフだ。
伝承によると「迷い家」は、遠野市の白望山で迷い、息も絶え絶えになり、困り果てた、村人達の前に現れたという。そこで村人達は休息を取り、そして帰路につくときに、何でもその家のものを村に持ち帰ると、こぞって皆、財を成したそうだ。しかし、それを聞いて何人もの村人が白望山に行き、財を成そうと迷い家を探したが誰も見つける事ができなかった。という怪奇的な噺だ。
そして、「小瀬川白望」の性格も同じく、あるクラスメイトが白望を求めてやって来ても、決して要求に答える事はない。しかし、たまたまの境遇に、たまたま知り合った相手には話に応じる。そして、麻雀でも私生活でも迷うとより高みに行ける、と言うキャラクターだ。
私はそこに神の姿を感じた。
なぜなら民間伝承はときとして土地神をつくるからだ。
例えば、遠野に飢饉が起きて、迷い家から戻ってきた村人がそのときの体験を元に救いをこうて迷い家を模した仏像を彫り、それを村の神社仏閣へ奉納したとする。そして、運良く飢饉が治まりその仏像が飢饉を救ってくれたと村中の人が信じたとしたらどうだろう。
更に時代が下り、その仏像と『迷い家』の伝承が起因となって。自ら求めていても得られないが、時が過ぎて本当にご縁があれば助けて下さる、良縁の神様として。或いは麻雀ではないにしても、迷っている人に寄り添ってくれ、徳を積むことによって助けて下さる神様として。祀られたとしたらどうだろう。
現代人からすれば、たかが漫画のキャラクターでしかないのだが、それこそ時代と状況が違えば彼女は神として祀られていたかもしれない。
民間伝承を由来に一個人。云わばシンボルをつくり出す事は、土地や時代の重さから、個人が物語を紡ぐよりも遥かに色んな意味合いを持つ。
土地や文化が人々の心象風景に影響を与え、その心象風景から民間伝承が生まれる。
吉本隆明っぽい言回しになるが、誰にでも、生まれ育った土地や文化が裏返った部分が人の心にはある。そして、民間伝承というのは、その土地の皆の心、共同幻想が裏返ったものだと言える。
更に話が発展して、民間伝承からある一人の生きた人物が産まれた事に、私はいとおしいものを感じた。
ある純粋な人物によって、その民間伝承が裏返った個性の人物が居たら(つくられたら)、それは私にとって夢の中で生き続けるいとおしい存在になるだろう。

画像3

名峰 白望山

『催眠術』
催眠術なんて世の中に蔓延っている。ステルスマーケティングや、変なスーパーの購買意欲をそそる音楽から。体育でやる謎の行進の授業までみんな催眠術であろう。
精神科医の認知行動療法も、人の考え方を変えているという点では催眠術だ。
私の師で吉本隆明という人が居るのだが、彼は誰であれ人の心が見せている風景を幻想と言った。
私も何かを考えたり、何かを思ったりしながら物を見たり、行動したりしているし、貴方もそうだ。
その考え方や思いの根底にある人の心が何なのか。彼は個人幻想という言葉を使って、恋愛での二人の幻想や共同体の幻想と対立させて、紐解こうとした。
実際にそれは大当りで、『共同幻想論』は戦後日本を代表する書物となった。
しかし、個人対世間の関係は分かっても、人の心までは、生涯をかけたにも関わらず、まだ解明されずに残っている。
その心の幻想を発掘する事が急務であろう。
結局、催眠術なんて個人幻想のいじり方をまとめた物でしか無かろう。催眠術は自然観察を元にしたテクニックであって、学問では無い。



『花田家について思うこと』
戦後の文学者「花田清輝」とその孫で、アニメの脚本家「花田十輝」について思う事を書きたい。
先ず両氏ともに言えるが、どこか話の切れ味が悪い。と言うよりそもそも話にあまりキレが無い。
先ず花田清輝だが、現実を書こうと言う意思は伝わるのだが、同時代に活躍した坂口安吾や吉本隆明に比べると、文章のキレ。なんと言うか鋭さが無い。そんなもんだから、私は読んでいて面白味がなかった。
それが孫の花田十輝にも言えるものだから面白い。
彼の作品も失礼だが、キレが悪く、それが原因で面白さを欠いている。
話の強弱というか。話には必ず、進めるうえでの大事な要点みたいなものがあって、そこを演出やセリフまわしで上手く読者や鑑賞者の眼を惹くように持っていくと面白くなるのだけれども、それが彼らの作品には少ない。
いわゆる勘所が見えにくいから、観ている此方としてはそれによって、心が置いていかれたような心情になる。
「花田清輝」の場合は話が続きそうなところ、あと一歩言ってくれよと言うところで話が終わっちゃうし、「花田十輝」もなんかクライマックスで盛り上がらないまま戦闘シーンがはじまったり。
なんと言うか話がのっぺらぼうなんだよな。
ただ、だからこそ良いと言えば良くて、彼に日常の情景の話を書かせたらかなり面白くなる。
そもそも私達の日常なんて、のっぺらぼうな事が殆どな訳だから、逆に下手な演出やセリフを使うよりも、のっぺらぼうな方が型にハマって、作品として現実感が出てくるから良い。
そんなもんだから、言い方が悪いかも知れないが、花田十輝は下手に色んなジャンルに手を出すよりも、日常に潜む心の葛藤や、面白さみたいなものを今後も書き続けた方が良いのではないだろうか。
最も、花田清輝が戦中に流行って。戦後、共産党から持上げられたのは日常の風景が上手く書けたからだろう。
ただ、それも残念ながら吉本隆明に論争で負けたイメージの影響もあって、高度経済成長より後の時代には残らなかったが。
共産党に持ち上げられてからも、愚直に日常の風景を書いて、吉本にもこれが俺の文芸だくらいの事をそこで言えば面白かったんだけれども。
共産党に持上げられてプロレタリア以外の事を書くのに抵抗があるだろうから、そういう訳にはいかなかったんでしょうね。

『意識が飛ぶ』
意識が飛ぶのはなんでだろう。
そうか、頭使わなくなるからか。
年を取ると、徐々に頭を使わなくなると言うか、息の抜き方が上手くなる。実に氣持ちの良い。
氣持ち良すぎて眠くなる。
飛鳥に吹く風は良いよな。風の匂いが好きだ。その匂いのお陰で深く呼吸ができる。
静けさこそが私の帰る場所だ。
静けさの中からしか、生きるエネルギーも物事の本質も感じられない。
ただ静かに自分の奥から沸き上がってくるリズムに身体を預けるだけで、こんなにも人は氣持ち良くなれるのか。

画像4

『機能主義のトラウマ』
今の人は人間をものや概念としか見れないのではないか。
分かり難いものを悪としか見ない、そんな意見が大衆の過半数を占めるから変な方向にいく。
これじゃいつナチスの二の前になってもおかしくない。
学校教育もそうだ。教員や学校の方針を押し付けて、それに順ずる生徒を良しとし、規格外の生徒は個性を理解させる事なく、厄介払いで排除される。排除しないにしてもある一つのやり方が全て正しいと考え、他のやり方を良しとしない人が多い。
やり方を押し付けられる事ほど不憫なものはない。所詮、大概の受験や仕事なんて機能主義じゃないか。あんなのマニュアル通りにやれば誰でもできる訳で。
別に目くじら立てて自分が最も良しとする考えを押し付けなくて良いじゃないか。
イタリア人なんて仕事や勉強に「そんなのたかが機能主義じゃないか」とジョークを言っている。
それくらい精神の自由さが有るなかで一人、自分の世界を構築することがどれだけ大事かもっと自覚すべきだ。
でないと本当の学問や芸術は生まれない。仕事に真から向き合えない。
そしてそんな機能主義のトラウマからやっと脱け出せてきた。
徐々に自分のスタイルを身に付けつつある。
自分のスタイルは最高だ。何もかも自分で決められる。どういう事が苦手かや、どういう精神状態で学べば緊張しすぎないだとか、長時間やれるだとか。
音楽流そうが、どれだけ時間をかけようが、短時間でやろうが、好き放題だ。
本当はそういう一人で考えて、独り学ぶ力こそが尊いはずだ。
久しぶりに今日は良い達成感を感じたよ。

『柵(しがらみ)』
何かこう、気負って上手くいかないものとか、自分の柵(しがらみ)と言うか、トラウマと言うか、自分の中でなかなか壊せないものがある。
基本そういうものに対しては放っておくとか、誰かに頼もうとか、時が過ぎたら壊れるものでしょうと思っている。
ただ、どうしてもそういうものを壊して、克服しなければならないタイミングがある。
そんなときは克服するのに、途轍もない苦労と、終わりの見えない不安と苛立ち、絶えず悩みが頭にある苦労とで、身体が上手く動かなくなる。
その中で如何に越えていくかみたいな所が難しい。
努力と時間を惜しまないのは勿論の事、ある人は自己暗示をし、ある人は哲学し物事の捉え方の幅を増やし、またある人は瞑想したり、脳、全身の使い方を変える事で乗り越える。
そこの乗り越える、峠を越える瞬間の心理状態というのが実に不思議だ。
なんというか、その一瞬、呆気に取られるというか、でも実感としてああこれは峠を越えたなと言う実感がある。
話は反れたが、苦難を乗り越えるに当たって身体と頭と心の使い方を変えると言う所がみそみたいだ。

画像5

『傲り』
傲ってはいけない。芸術の神様は厳しいもので、上手くいったと思っても、絶えず精進し、静かな気持ちで高潔に挑まないと、直ぐに氣を悪くしてしまう。
俗世に居ると、直ぐまわりの人の勝った負けたで一喜一憂してしまう。
実力がつき、喜ぶのは良いが、あまり高飛車になると、足元をすくわれる。それが物書きとして最も危険だ。
それなら、まわりから賞賛される事のないところに行けば良いじゃないか、というのも一理あるが。人間、一人じゃ生きられない訳で。賞賛されないと、仕事も来ないし。努力した分、賞賛された方がこっちもやりがいがある。
自信を持つこと、ポジティブに考える事は素晴らしい事だが、あんまり図に乗り過ぎると、痛い目をみる。
宮沢賢治が自分は学問を学び続け、それをもって科学が変な方向にいかないようにする審判の役目を果たしたい。科学が人を痛めつける方向や、ただお金儲けの道具として乱用される事の無いように、自分はその良い科学と悪い科学を判断する立場に成りたいと言っていた。
学問とは常に人に寄り添ったものでなければならない。
その為には自らが、絶えず素直な心で、物事、学問に向き合い続けなければならない。
少しでも嘘をついてしまうと、どれだけ良い研究をしていても霞んでしまう。
私もただただ真の心を着くし、心静かに、辛くてどうにもならないときに人の心を癒し、人生の指針になるような言葉、態度を伝えられる様な、詩人でありたい。

ここから先は

0字

¥ 110

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?