「死神」のともす光明

 やることなすことうまくいかず、気がつけば一文無し、もう首でもくくるしかないと思っていた男に、声をかけてきたのは意外にも死神。
『お前さんにはまだ運がある』
 そう告げると、死神は男にひとつの能力とひとつの呪文をさずける。
 それが死神を見る眼と、その死神を追い払う呪文だった。
『寝ている病人の足もとに死神がいる場合はその呪文を唱えればすぐに消えて病気も治る。ただし、枕もとにいる場合はダメだ。そいつはもう助からない』
 はじめは半信半疑だったものの、ひょんなことから試す機会を得て能力も呪文も本物だと知る。
 その能力をいいことに、医者の看板を掲げ、足もとに死神のいる病人ばかりを助けて大もうけをするものの、やがてめぐりが悪くなってきて、どこの家に行っても死神は枕もとに居座っている。
 やがて折角もうけた金も使い果たし、再びにっちもさっちもいかなくなってきたところで、招かれた病家へ行ってみるが、やはり死神は枕もとにいる。
 なんとかならないかと頭をひねり、ひとつの名案を思いつく。
 死神の隙をついて病人をふとんごと前後反転させ、頭と足を逆にして息もつかせぬうちに呪文を唱えてしまう。
 虚を突かれ、驚いた顔を残して死神の姿は消え、男はそれまでにも増した謝礼を受け取る。
 そうしていい心持ちで歩いていると、不意に声を掛けてきたのは、はじめに出会った死神だった。
『馬鹿なことをした。お前は、死神の約束を破って運を使い果たした』
 なかば無理矢理連れていかれたのが気味の悪い洞窟で、あたり一面見渡す限り無数の蝋燭が林立している。
 これはすべて人間の寿命を表す蝋燭で、長く残っているものほど長生きをするのだという。やがて、ひときわ短く、今にも消えそうな蝋燭が、男の目に入る。
 それが男の蝋燭で、もう寿命は間もなく尽きると告げられる。
 驚いた男はなんとか助けてくれと死神にすがりつく。
 それならばと新しい蝋燭を一本手渡し、これにうまく火をうつすことができれば延命することができると教えられる。
 あわてて新しい蝋燭を手にするものの、なにしろもとの蝋燭は勢いも弱く火も小さい。そのうえ降って湧いた事態に手は震えて、うまくいかないどころか、むしろ火を危うくさせる。
 そして、おそれおののく男の目の前で、火は消える。

 以上が、落語の怪談噺の代表格にして異色作「死神」のあらすじになります。
 これがここのところ落語好きばかりでなく、本職の噺家のみなさんの間でも大きな話題となっておりました。

 なぜなら、米津玄師の新シングル「Pale Blue」に収録された「死神」が、この落語の「死神」をモチーフとしており、MVも高座風景を模したものとなっていたからです。

 それを受けましてYouTubeをはじめとして、多くの「死神」の解説が作られております。
 私もこのnoteや、Twitterなどで落語を話題にさせていただいておりますので、是非ともこの流行に乗っかかるべくちょこちょこっと書いてみました。

代表で異色の「死神」

 さてこの「死神」が代表的な怪談噺だという一端は、どのサイトでも結構ですので、CDやDVDなどの録音・録画された商品を検索していただきますと、ずらりと結果が並ぶところからも御理解いただけるかと思います。
 それも三遊亭圓生や三代目三遊亭金馬といった昭和の大名人からはじまり、五代目三遊亭圓楽に立川談志などお茶の間にも名前の知れた大師匠、そして柳家小三治、柳家さん喬、五街道雲助という現代の噺家まで、時代や流派を問わずとなっています。

 このあたり、例えば「寿限無」や「時そば」など、名前のよく知られた演目と比較しても明らかです。

 商品化されるのは高座の極一部ですから、いかに「死神」が長く多くの人々に語り継がれ、聴かれ続けているかがわかります。

 聴く側からしましても、「死神」は聴きでのある噺です。
 大半は男のコミカルな言動で滑稽噺としてじゅうぶんに笑わせてもらいつつ、終盤の蝋燭の洞窟の場面での張り詰めた空気からの怒涛のラスト。
 この温度差はなかなか他の噺では味わえず、また別の噺家さんで聴いてみたいと思わせてくれる噺です。

 需要と供給ではないですが、話し手と聞き手の考えの合致した人気噺といえるでしょう。
 現在ではYouTubeでも正式に動画が投稿されたりもしています。こちらはテレビのコメンテーターとしてもすっかりおなじみとなっている立川志らくによる高座となります。

 御覧いただいて「おや?」と思われた方も多いんじゃないでしょうか。

 そうオチが、私の紹介しているものとまったく違うのです。

 これが「死神」の異例な点のひとつでもありまして、非常に多くのオチのバリエーションが存在しています。
 最もオーソドックスで、スタンダードとされるのが冒頭に書いたあらすじで、三遊亭圓生(1900-1979)の型なのですが、ところが圓生と同時代の三代目三遊亭金馬(1894-1964)だと、そもそも主人公は最後に死なず、火のついていない蝋燭を見つけるとあっちに継ぎ足しこっちに継ぎ足ししてみんな長生きをしてハッピーエンドというまるで正反対のものとなっています。

 この圓生、金馬をはじめとしまして、今では十を超えるオチが作られ、さらに現在でも増え続けています。

モダンな「死神」の成立

 このあたりの多様性の原因は、ひとつに、おそらく「死神」の噺の成立と、寄席という場の変化がかかわっているのではないかと思えます。

 一般的に「死神」は、落語の中興の祖といわれる明治の大名人三遊亭圓朝(1839-1900)が、グリム童話「死神の名付け親」を翻案して作り上げたものだとされています。

 圓朝には、ほかにもモーパッサンの「親殺し」をもとにしたという「名人長二」や、プッチーニのオペラ『トスカ』の原案であるサルドゥの脚本「ラ・トスカ」を使った「名人くらべ」という噺もあり、明治の開化期に海の向こうから押し寄せてくるこれまで日本人が見たり聞いたりすることのできなかった西洋文化を巧みに取り入れて、ひとびとに提供していました。

 そのように、「死神」は元来、モダンやハイカラなテイストのある噺なのです。

 それは人間の寿命を左右する死神という、日本の風俗伝習にはあまりなじみのない存在がモチーフとして扱われているところからもうかがえます。

 しかし明治の世も過ぎ去り、大正昭和どころか平成令和となってきますと、江戸の空気なんてものは教えられてようやくわかってくるもので、そこに接がれたモダンさがなんとも据わりわるく感じられてきます。
 自分の子どもの頃、いかにも時代の最先端と思われたファッションやアイテムが、今思い返してみると当時の光景のなかでそこだけがちぐはぐに浮かび上がるってことはないでしょうか。
 そのままを演じる「死神」にもそういうトゲのようなものがあるように感じます。
 そのあたりは、「死神」の演出にも関係しているように思えます。

明治当時の暗い寄席

 結末部分での、人間の寿命を示す蝋燭を継ぎ足す場面、あそこでの臨場感はおそらく明治や大正、昭和の初期までと現在では大きく変わっているでしょう。

 落語は、その成立から長らく、寄席を主な場として演じられてきました。寄席とは落語をはじめとした演芸を専門として、ほぼ1年365日公演を行う小屋のことです。現在は東京では鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の4軒だけが営業していますが、江戸の最盛期には各町に用意されており500軒が営業していたといわれています。

 その寄席の内部の様子は、三遊亭圓朝の口演を実際に体験した記録が残されています。
「半七捕物帳」シリーズや、「修禅寺物語」などの舞台脚本を数多く執筆した岡本綺堂(1872-1939)が、少年時代に三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」を聴いた思い出を昭和10年頃に書いています。

 速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥んで聴きすましている。(中略)今日と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高坐の蝋燭の火も薄暗い。外には雨の音が聞える。それ等のことも怪談気分を作るべく恰好の条件になっていたに相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。(「寄席と芝居と」p. 134)

 当時の寄席が蝋燭やランプの薄暗い明かりだけを頼りに行われていたことがわかります。
 そうしたほの暗い明かりのもとで、いまにも消えそうな蝋燭を移し替える動作を行う緊迫感は強烈でしょうし、例えば最後の消える瞬間に高座に立てられた燭台をふっと吹き消して、あたりをまっくらにするような演出もとられていたかもしれません。

 けれども、この暗さは近代化の波に飲まれて瞬く間に退いてゆきます。
 アメリカに生まれ、日本に移住し没した日本文学者エドワード・サイデンステッカーによる優れた江戸東京変遷史『東京 下町山の手』では、東京のガス灯・電灯の導入について述べられた直後、次のように語られています。

 こうした新しい照明が芸術に及ぼした影響も大きかった。特に深い影響を受けたのは演劇だろう。明治十年には歌舞伎にガス灯が使われ、その十年後には電灯が使われている。今日では、舞台はそれこそ目も眩むばかりにまぶしく、ほの暗い中で演じていた昔の有様など、ほとんど想像することもできない。(p. 115、116)

 谷崎潤一郎もまた「陰翳礼賛」にて、同様の感想を書いています。

 能楽においても女の役は面を附けるので実際には遠いものであるが、さればとて歌舞伎劇の女形を見ても実感は湧かない。これはひとえに歌舞伎の舞台が明る過ぎるせいであって、近代的照明の設備のなかった時代、蝋燭やカンテラでわずかに照らしていた時代の歌舞伎劇は、その時分の女形は、あるいはもう少し実際に近かったのではないであろうか。(中略)大阪の通人に聞いた話に、文楽の人形浄瑠璃では明治になってからも久しくランプを使っていたものだが、その時分の方が今より遥かに余情に富んでいたという。私は現在でも歌舞伎の女形よりはあの人形の顔の方に余計実感を覚えるのであるが、なるほどあれが薄暗いランプで照らされていたならば、人形に特有な固い線も消え、てらてらした胡粉のつやもびかされて、どんなにか柔らかみがあったであろうと、その頃の舞台の凄いような美しさを空想して、そぞろに寒気を催すのである。(p. 98、99)

 明治の後半でさえ、既に舞台はかつての暗さを失って、新しい光源が照らしていました。その状況で蝋燭に火をともす演技はいかにも旧態依然としており、モダンな「死神」とはそぐわないものがあります。
 そうでなくとも噺の最後の最後、蝋燭が消えた主人公がばたりとその場に倒れ伏す演技をするのですが、演じ終えて楽屋に下がる段になって蝋燭の消えた向こうで足音を忍ばせて去るならまだしも、周囲の明るいもとでむくりと起き上がると少々様にならないように思えます。

 こうした理由が合わさって、現在の状況にふさわしい「死神」の形を模索し、多くのオチが作られていったのではないでしょうか。

「死神」のバリエーションの数々

 さて、その「死神」のバリエーションにつきましても少し。

 とにかく多くの型がある「死神」で、なかには私のnoteでも以前取り上げたことのある柳家喬太郎(ちなみに米津玄師のMVの落語の演技指導を行った柳亭左龍はこの柳家喬太郎の弟弟子にあたります)によるドイツのグリム童話を落語化したという逆輸入版もあったりしますが、大別するとラストで主人公が死ぬパターンと生きているパターンに分けられます。

 もっとも、ベースが因果応報の物語ですから、あまり生きているパターンは多くなく、十の噺があってもひとつあるかないか程度です。

 つまりそれだけ主人公をどう殺してやろうかと、みなさん腕によりをかけて舌なめずりして趣向を凝らしているという寸法になるわけです。
 こういいますと、シリアルキラーの博覧会のようですね。

 そんななかでも、私の好きな殺され方(これもすごい表現ですが)は、立川志の輔によるものです。
 御存知、あの「ガッテン!」な志の輔さんです。
 CDの録音としては「志の輔らくごのごらく」シリーズの第1作に収録されております。

画像1

 志の輔の殺し方のどこが好きかって、それにいたるまでの語り口のなめらかさ、主人公の男の言動が引き起こす笑いどころの多さ、なにより幕引きがすっと腑に落ちるところなのですね。
 これまでお金にまつわる様々なエピソードが積み重ねられていただけに、最後の最後で「なるほどこの男ならこういうことをする」と、三十分くらいの内容が違和感なくまとめられ、そしてそれが実にさりげなくさらりと語られて鮮やかなんです。
 聴き終わっての感覚もさっぱりとして、悲劇はもちろん悲劇なのですが喜劇としての様相のおかげで後味がいい。
 おかげで、怪談噺の不気味さを味わいつつ、滑稽噺の楽しさも満喫できる作りになっています。
 とにかく、この構成の妙に関しては、聴いて味わっていただきたいです。

 ただ、「死神」は今日も新しいサゲ、新しい演出が作り出され続けています。

 それこそ、古いともし火が燃え尽きようとしたところで、新たな蝋燭が継ぎ足されたように、今まさに令和の「死神」ができ上がり、新たな光明を照らしつけています。

 是非みなさんも、録画で録音で、そして高座で「死神」に接して、自分だけのお気に入りの一席を見つけてください。

引用文献

岡本綺堂『綺堂随筆 江戸のことば』(河出文庫)2003
エドワード・サイデンステッカー(安西徹雄訳)『東京 下町山の手』(ちくま学芸文庫)1992
谷崎潤一郎『陰翳礼賛』(創元社)1939

ここまでお読みいただきましてありがとうございます! よろしければサポートください!