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「教育の選択肢をつくる、ということ」〜何が問題なのか

「日本は教育が遅れている」
こんなフレーズを聞いたことがある人もいるかもしれません。

でも実際、教育が遅れているってどういうことなのか。
僕がやろうとしている事業と絡めて、今日はこの話をしてみようと思います。

製造業工場モデルを前提とした教育

日本の教育は、皆に同じ事をさせ、同じように枠に当てはめ、同じようなレールの先を目指すことを良しとします。
いわゆる画一的な教育です。

こうなったのにはもちろん理由があります。

さかのぼれば、第二次世界対戦で敗戦した日本は(もっと言えば明治時代から)、経済力が物差しとなったグローバル社会で生き残るため、生産力を高めていく必要がありました。

その時代の経済の中心は、工場でいかに高品質なものを大量生産できるかという製造業にありました。
実際、この文脈で日本は世界でも稀に見る経済発展をとげ、TOYOTAなど名だたる企業が世界に名を轟かせました。

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この経済発展を支えたのは紛れもなく日本人一人ひとりであり、その日本人たらしめた大きな要素が教育でした。

つまり、製造業の工場で働く人に必要な5要素として、「偏差値がそこそこ高い・素直・我慢強い・協調性が高い・上司や先生の言うことをよく聞く」という人材を育てる教育を行ってきました。

グローバル化が進む時代で生き残るために、日本は当時最善と思われた教育方法を採択し実行していったのです。
そしてその効果は、日本の高度経済成長が裏付けていきました。

時代は変化する

しかし時がたち、工場による製造業だけでは、経済成長をとげられなくなってきました。
そもそも、単に経済成長を追い求めることがいいのか、そこすらも問われる時代になってきています。

IT・AIの発展はめざましく、地球の持続可能性や多様性の大切さも認識されるようになり、先のことの「答え」が分からない時代に突入しているわけです。

つまり、今の時代を生きていく力は、ひと昔前の製造業の工場で働ために求められた、「偏差値がそこそこ高い・素直・我慢強い・協調性が高い・上司や先生の言うことをよく聞く」といったものから変わっているはず。

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しかし教育は全く変わっていない。
そう、昔の製造業工場モデルを念頭においた教育スタイルのままなんです。

この時代を生きていく力をつけて大人になっていくためにも、教育のあり方は変わっていかなければならない、そう思います。

画一的な教育のもう一つの問題

今の画一的な教育では今必要な力が育たない、という問題と別に、もう一つ問題があるとぼくは思っています。
そしてその問題こそ、ぼくが解決したい問題でもあります。

それは、画一的な教育はある一定の子どもたちを取り残してしまう、ということです。

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「こういう人になろう」という教育は、"そうでない人"や"そうありたくない人"に苦しみを与えてしまうことが往々にあります。

例えば発達障がいを抱えるある子どもは、授業に同じペースでついていくのが難しかったり、長い時間座っているのが難しかったりします。
そんな時、学習ペースからの遅れを生み出してしまうこと以上に、”画一的な教育が良しとする像”に対して「自分はそうなれない」という自己肯定感を低下させてしまうことがあるのです。

発達障がいに限らず、病気を持っていたり、LGBTQであったり、マイノリティと言われる子どもたちにとって画一的な教育はあまりにも相性が良くないのではないでしょうか。

本来一人ひとり違ってみんないい。
「普通の子」なんていない、普通なんて本当は幻想のはずなのに、その普通のイメージに自分が合わないと思った子たちが苦しんでしまう現状がある。

だから別の形の教育が必要だと僕はせつに思うのです。
その構想については後半で書いていきますね。

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