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ヴィーガンvsイーガンvsわたしで戦った場合の勝者は?


 海外SF作品に抵抗感を覚えてしまう事には、理由がある。国内SF作品の場合、小説の内容は作者→読者という流れなわけだが、海外作品=他言語で書かれた小説の内容は、作者→「翻訳者」→読者という流れとなる。

 この「翻訳者」なる存在がとてつもなく分厚いフィルタとなる。過激に言うならば、翻訳された作品は厳密には作者の書いた小説として読者には届かない。最早、翻訳者が読み解いた原作付き小説なのである。

 どのジャンルでも、海外の素晴らしい小説を「翻訳者」が該当言語を日本語へと変換し、我々国内の読者へ届けてくれる。ありがたいことであるし、素晴らしい職業であり、知識と専門性も必要で翻訳という作業はとてつもなく大変で頭を使う難しい職業であろう。


 しかし自分は、作者自身が選んだ単語で、表現で、紡ぎ形成された生粋の小説が読みたいと思ってしまう。この問題には他言語の知識を持たぬ無知な自分に全ての原因がある。そのため、結論はすでに出ているのだ。

 若かりし頃、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの児童向けファンタジー作品に惚れ込み学校で習っている途中の英語と辞書で足りない知識を補完し読んだ。梅田の紀伊国屋書店ペーパーバックを捜し求めた。

 幸運にもハリー・ポッターが世間で流行り始めていたので海外児童ファンタジーのペーパーバックも、紀伊国屋では取り扱われていたのだ。おかげで「Howl’s Moving Castle」は手に入り、他にもダレン・シャンやバーティミアスも原作ペーパーバックが棚に並んでいた。正直、作品は好きじゃないけどありがとうハリーポッターブーム!という感である。

 梅田へと向かう馴染みのチョコレート色な阪急電車で、果たして取り扱いがあるだろうかという不安と、希望に胸をそわそわとしながら流れ去る景色を眺めていた、あの感情はおそらくもう人生で二度と味わえぬだろう。


 それくらい、原作、作者の書いた本当の小説は尊い。


 先に翻訳されたものを読んでいても原作を自分で読めば、単語ひとつひとつの重要性、一文の形成、パーツとしての配分、それを通しての物語と作者の息遣いに触れられる。なんて素晴らしいのだろうと、当時夢中になった。しかし学校で習う英語文法はよくわからず成績は振るわなかったが。

 いま思えばそのまま英語が読めるぐらいのままでいればよかったとつくづく思う、口で話すレベルでなくとも、それでも海外SF作品を読むことが出来たのだから。大変悔しい。

 それで、グレッグ・イーガンの小説は翻訳したものは困難で、読んでいて頭が痛くなったり放り投げたくなったり読む事を諦めたくなったりする。もう嫌だ勘弁してくれと、自分の翻訳された日本語への読解力の無さに死にたくなるほどに。恐るべしイーガン。もちろんイーガン以外の他国作者も素晴らしい。最近は中国SFが盛り上がってきており、嬉しい限りである。

(翻訳に関する話は常々思うことがあるのでまた書く機会があるだろう)



 ヴィーガンというのは最近知ったのだが示す意味、また包括する概念の範囲が広過ぎるため上手く掴めない。まあ時間が経てばそれらは上手くあるべき言語へとそれぞれが収まるだろう。

 言語は人間が創りあげた最高の武器のひつとだ。必要であれあば言語は随時作成され浸透し人々に日常的な言葉として馴染む。人間の脳は優秀である。実に優秀であるからこそ時に恐ろしい存在でもある。

 ヴィーガンという人々?概念を持つ人々?を自分は羨ましく思う。


 ぶっちゃけ野菜高い。添加物とか調味料とか厳選した商品も高い。お金があかかる。自分のような庶民(の中でも下の方)には到底無理な食生活だ。ある程度の金銭的余裕があれば可能だろう、もしくは貧困。意識高い系の方とか、セレブ層の方とか、宗教的理由のある方とか、そういう方には向いているであろう。

 正直、他人の食信念について興味はさほど持ち合わせていないので、突然ヴィーガン?に目覚めても、もやしを蒸すぐらいだろうと思う。もやしは安くてお腹いっぱいになれるので。いつもお世話になっているありがたい存在。しかし蒸しもやしを三食続けることに明確な理由は無いのだが、なんとなくそれは身体に良くない気がするのだ。難しい。


 物理的に蒸しもやしだけで我が貧相脳がイーガン作品を読めるようになるかと考えれば、まあ、確実なのは阿呆な自分が全部悪い。


自分の完全敗北。


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