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短編 『ポイント駆動の犬たち』

 店に入ると、その男はあたしに向かって小さく手をあげた。
 つまりは顔バレしている。
 あたしは彼の前に座った。
「極秘の相談が、ファミレス?」
 駅の改札から直結したどこにでもあるファミレスだ。窓の下は青白く、帰宅を急ぐ人の流れがある。夏が近い。
 彼は若かった。
 あたしと同世代くらいだろうか? 総務省の中でも下っ端なんだろう。もしくはキャリアとか言う人種?
「予算が限られているんです。それに料亭という歳でもないでしょう、お互いに」
 そう言うからには、奢りってことなんだろう。あたしはオーダーを取りにきたウェイトレスに、こんなファミレスではいちばん高いシャリアピンステーキを注文した。
 ウェイトレスが去ると、彼はテーブルの上に名刺を置いた。総務省の行政配分局で役職の記載はなし、青井潤一。名前も顔も、こちらのリストで見た記憶はなかった。
「申し訳ないんですが、お渡しはできないので」
 青井は自分の名刺を引っ込めた。顔と同様、きれいに手入れされた爪だった。
「令状ありの相談じゃないってことね」
 あたしは聞いた。先に店に入った仲間がチェック済みだが、それっぽい警官の姿はなかった。
「もちろんです。メールに書かせていただいたように、ミツキさんのお力をお借りしたいというお話です」
「あのメルアドは公開していないんだけど?」
 青井は微笑んだだけだった。
「ヘッドハンティングなら、お断り。勤め人って柄じゃないから」
「大丈夫です。今回だけのお願いです。局の記録にも、一切残りません」
「行政配分局が、ポインターにお願いねえ………」
 ウェイトレスがステーキの皿を置いていく。
「どうぞ」
 青井は促す。彼の前にはコーヒーがあるだけだ。
 あたしは肉の端を切って食べた。やっぱり合成肉だ。外見そとみはそれっぽくても中は偽物で。
 政府が大々的に国民ポイント制度を始めたのは、今の与党が政権に復帰してすぐだった。
 一度自分たちを叩き落とした国民に、ポイント制度で首輪をつけようという見え透いた施策だった。企業が出すポイントとは違い、どうせ原資は税金で、彼ら自身の腹は痛まない。
 甘々の国民に、保身と金儲けの自動機械の政治家っていう、今日日、世界中で見られる図式だった。
 あたしにとっては、問題ない。
 社会正義なんて、未来永劫実現されることがない夢を見る趣味はない。
PPSポイントパスポートシステムがハッキングされました」
 青井は言った。
「珍しくないでしょう?」
 あたしは言い、口直しにクレソンを噛んだ。

 PPSは、政府が主導するポイントシステムの総称だ。
 仕組みとしては、国民ひとりひとりに紐づいたポイント制度で、重点施策への参加、国営放送の視聴、優良運転、ボランティア、寄付などの、政府が望ましいと考えるありとあらゆる活動にポイントが付与される。
 このPPSに乗っかった各省庁や地方自治体の企画、企業とのタイアップなども爆発的に増えた。今じゃあPPSの上で、どのくらいのポイント制度が動いているのか、正確に把握している部門はないという話だ。
 怪しい噂だってある。
 実情の把握自体が困難になったPPSを良いことに、SNSで政権与党をヨイショする、トンデモな歴史認識を披露するといった活動に対してもポイントが付与されているのではないか? といった噂だ。
 皆、ブラックボックス化したPPSの顔色を伺い、これに気に入られる活動は何なのかと右往左往している。おまけに受験や就職でも、対象者のポイント数の加味を検討するという学校や企業も現れている。
 自分たちの払った税金で、忠誠心もどきを買われるって、まったくお笑い草だ。
 あたし?
 あたしたちポインターは、ポイントを狩る。
 もちろん、政府が気に入る活動をしてちまちまポイントを貯めるほど暇じゃない。
 狙い目はバグだ。
 コードレベルの話じゃない。
 複雑化しすぎたエコ・システムに生まれる運用バグとでも言うべきだろう。あるポイントを取得したら、もれなく別のポイントも付与されますって言うありがちな奴。
 これらのポイントは、どこかで連鎖を止めなければならない。そうしないと、ポイント付与の永久ループが発生する。
 このストッパー忘れを見つけ、修復される前にポイントをループさせ、換金してフケる。それがあたしたちポインターのやり口だ。
「いつだって誰かがハッキングを試みているはずよ。そっちだってそのつもりで対策してるでしょう?」
 あたしは聞いた。
「もちろんです」
 青井はうなずいた。「しかし、今回は問題が大きい。コア・システムがやられました」
「………痛いね、それ」
 あたしは天井を仰いだ。

  ***

「これを読めってか? 俺は機械か?」
 オッサンは髭に埋もれた唇をゆがめ、分厚いコピー用紙の束を振った。
「まさか。スキャンしてデジタルに戻せば良いでしょ」
 あたしは言い、サーバーラックの隙間に発見したうまい棒を齧った。
 誰の趣味か、納豆味だ。
 これならカスみたいなステーキでも食べておくんだったが、さっきは頭に来て、食事を続ける余裕なんてなかった。
 青井はスカした顔で、ギャラは、あたしらが先月稼いだポイントだと言ったのだ。局としては、即刻返納を求めるべきなんですが、今回、ご協力いただくお礼として、と。
 あたしのだけの話なら、ふざけるな、で店を出ただろう。でも仲間への分配もある。結局、青井の提案を呑むしかなかった。これじゃあ勤め人と変わらないじゃない。
 ファミレスからキックボードを駆って着いたのが、昭和生まれのハッカーを気取るオッサンの私設ラボだった。
「局のマシンじゃあ、外部記憶装置の口は閉じられているんだってさ」
 あたしは言った。「でも、バイナリ表示して、印刷はできるってこと」
「ったく、役所仕事だな」
 オッサンは言い、ジャンク置き場と化したクローゼットに、スキャナーを探しに潜った。
 仲間内のレポートで読んだことがあるが、PPSのコア・システムでは、第一次のポイント付与マスタを管理している。つまり、国民のアクションとポイントの紐付け情報だ。
 今回のハッキングで、そのデータベースが勝手に暗号化され読み込み不能になった。データ暗号型脅迫のパターンだ。まずいことに、汚染はバックアップシステムにも広がっていた。
「要求は、まだどのCIRからも出ていません」
 青井は言った。
 反PPSを標榜している組織はいくつもある。中でも技術的な攻撃を続けている組織を、CIRと総称する。キャッチャー・イン・ザ・ライの頭文字らしいが、あたしからすれば、かなりな中2病だ。
「幸いと言って良いのか、サブシステムの障害が影響し、攻撃に使われたランサムウェアは消滅していませんでした」
 そして青井から渡されたのがコピー用紙の束、侵入用プログラムのバイナリだった。
 ハッキングに関してはアマチュアにすぎないあたしには、バイナリを解析することで、どこまで犯人に迫ることができるのかは分からない。それは青井だって承知で、あたしの背後にいるポインターの組織力をあてにしているんだろう。

「ちょっとパターンが見えてきたかもな」
 バックパックを枕に床で眠っていたあたしの尻をオッサンが蹴ったのは、午前三時過ぎだった。
 口の中には、合成肉と納豆のミックスされた臭いがへばりついていた。
「デコンパイルして眺めてみたが………、キルじゃねえか、これは」
 オッサンは四つ並んだディスプレイのひとつを指した。「標準ライブラリの、このメソッドを無理矢理上書きしているだろう? 普通、しねえんだ、こんなこと。生半可な知恵じゃあ副作用が見えないからな。これは2026年9月にキルがやったって言われている本土反撃で見たことがある。他にも、キルの癖っぽいやり口が見えるな」
「え、それスゴイ!」
 オッサンは、ほとんど理解していないあたしを憐れむように見た。
「お前、キルが今どこか知ってるか?」
 あたしたちの業界では、脱台だったい者キルは有名人だ。性別は不明。台湾脱出後、しばらくは沖縄で活動していたはずだが、中国公安の追跡でふたたび姿を消した。日本国内にいるのか、海外に出たのかも分かっていない。
「でも、キルがCIRと組むってあるかな?」
 あたしは言った。「ポリシーって言うか、毛色が違う気がする」
「………さあな」
 オッサンは白髪交じりの頭を掻いた。「バイトでもしてるんじゃねえのか? 行政配分局を手伝ってるどこかの阿呆ポインターみたいに」
 あたしは舌打ちをして、バックパックを背負った。オッサンが解析結果の詳細データをメモリにコピーして寄越した。
「それで、教えるのか? その役人に」
 少し考え、あたしは頭をふった。
「今はまだ。性格上、転んでもタダじゃあ起きたくないんだよね」
「ヤバい性格だな」
 ラボを出るあたしに、オッサンが言った。

  ***

 携帯なんかがなかった頃の待ち合わせでは、相手がどんな風に行動するだろうか、って互いに想像をめぐらしたんだろう。
 あたしはポインター仲間のツテを使い、キルの居所を聞きまくった。わざと自分の名前を出して。
 あたしたちの属する集合は、ブラックハットやマルウェアデベロッパー、サイバーアクティビストなどとかぶっている部分も多い。その集合のどこかには、キルの潜伏場所を知っているCIRの関係者がいるはずだった。
 プライベートな番号に電話がかかったのは、二日後の朝だった。
「私を探している?」
 前置きなく、女は言った。
 あたしは寝袋から這い出した。
 雑居ビルの屋上からは、白んでくる街が見下ろせた。どこかでカラスと酔っぱらいが叫んでいる。ゴミゴミした、ゴミみたいな街だ。
「あんた、誰?」
「キルと呼ばれている」
 彼女は言った。「ポイントあさりのミツキという日本人が私を探していると聞いた」
 カチンと来たが、あたしは電話を切らなかった。
「PPSをロックしたでしょう、あんた」
 あたしは聞いた。
「関係ある? あなたに」
「あたしのフィールドだからね、PPSは」
「フィールド? 物は言いようね」
 キルは乾いた声で笑った。「ゴミの漁り場でしょう?」
「道徳の話でもしたいの?」
 あたしは言った。「小学生みたいに? あんたの手はキレイだって?」
 キルが台湾語で毒づくのが聞こえた。
「で、要求は出したの?」
 あたしは聞いた。
 ここ四日ほど、PPSは保守点検とやらで新規のポイント制度加入を制限している。企業のサービスなら問題化するところだが、何につけ殿様とのさま運用の行政システムだ、今のところIT系のネットニュースに短い記事が載るだけで済んでいる。
 青井には定期報告として、オッサンからもらった解析結果を小出しに送っていた。案外、使えない奴だったって思われているだろう。
「あんたもポイントくれって要求するつもり?」
 黙ったキルに、あたしは言った。「相場を教えてやろうか? 聞いてるの?」
「………これ以上は、直接会わないと話せない」
 キルは言った。
「は? 直接会うって、いつの時代よ?」
「こっちに来て」
「どこ?」
「和歌山」

  ***

 坊さんの集団が歌っていた。
 場末を絵に描いたようなカラオケスナックだった。頭の痛くなるミラーボールの光が、坊さんの禿頭で乱反射している。
 三杯目のウォッカトニックに口をつけた時、『カントリーロード』を歌う坊さんの相手をしていた女が寄ってきた。
「悪いけど、放っといて」
 あたしは手を振った。
「和歌山にようこそ」
 少ししゃがれた声は、電話で聞いたキルだった。
 あたしはキルを見た。
 桃色のボブカットの下から、キツい目があたしを見返した。この女がキルか………。
「代理人、ってワケじゃないんだ」
 キルはうなずいた。
「出ましょう」
 カウンターの中の、男にしか見えないママに手を振って店を出た。
 標高の高い土地だ。夜気は冷えはじめていた。
「仕事じゃなかったの?」
 あたしは聞いた。
 キルは頭をふった。
「社会勉強よ。この上にある山から降りてくる僧侶たちとコミュニケーションするの」
 羽田から関空に着いた後、電車を乗り継いで到着した。もう深夜近く、小さな街は閑散としていた。点滅信号の下を、白い猫が歩いていく。
「なんで和歌山?」
 あたしは聞いた。
「大学では宗教学をやっていた」
 キルは言った。「ここには、ヌミノースな何かが残っているかもしれないと思ったのよ」
「ヌミノース?」
「神聖な何か、もしくは体験」
「あった? そんなもの」
 キルは頭をふった。
「ナマグサボウズだけ」

 小さな繁華街から十五分も歩くと、周囲は空き家の目立つ住宅街になった。
「ここよ」
 キルは敷地だけは広い、古びた平屋を指した。
 雨戸を締め切って無人のように見えたが、キルが引き戸を開くと、台湾語の話し声が聞こえた。
 脱台者のアジトのひとつなのだ。
 畳を取っ払った部屋には、スチール製のデスクとパソコンチェアが並べられていた。
 今夜の訪問を予告されていたのか、キルの仲間たちは、あたしにほとんど目を向けなかった。忙しく議論しながらキーボードを叩いている。
「ビールで良いわね」
 そこだけパソコンが置かれていないキッチンでキルは言い、缶ビールを出した。カラフルな黄色のパッケージで、口に含むとパイナップルの香りがした。
「何人いるの?」
 あたしは聞いた。キルの仲間たちのことだ。
「さあ」
 キルは首を傾げた。「出入りが激しいの。平均して十人は常駐しているでしょうね。連携しているCIRからも人が来る」
「苦情が出ない? 近所から」
 多様性なんてきれい事を並べ立てても、この国の人間は子育て中のカラスみたいに異人にナーバスだ。皆が、キル並みに日本語が堪能とも思えない。
「この家は、ナマグサボウズに紹介してもらったから」
 キルはビールを飲みながら言った。「カントリーロードの」
「根回し済みね」
 あたしはうなずいた。「それで、どうするの? PPSを」
 行政配分局に忠義立てする気はないが、ポインターとして、いつまでもPPSに新規登録がない状態は困りものだ。新しいバグが発生しなければ、ポイントを荒稼ぎすることもできなくなる。
「あなたは、いつまでポインターをやるつもり?」
 キルはあたしを見た。
「さあね。PPSが続く限りかな。人間が噛む以上、システムからバグはなくならないからね」
「犬ね」
 キルは口の端をゆがめ、ビールを飲んだ。「ポイントの犬。偉そうにしているけれど、ポイントって餌を投げられ、尻尾を振って食いついている、他の奴らと変わらない犬ね」
「要らないお世話よ」
「犬だからご主人さまには忠実でしょう。知らないとでも思った? 飼い主の行政配分局に駆け込んだら良いんじゃない。PPSをロックした悪いハッカーを見つけました、ご主人さまあー」
 キルは、あたしの目の前に顎を突き出した。「撫ぜ撫ぜしてくださいって。こっちですよ、ワンワン、ワンワン、ワンワン」
 あたしの気は長くない。酒も入っていた。
 あたしはキルの頬を平手で殴った。このピンク髪女が。
 キルは顔をのけぞらせ、あたしを見て笑った。そして正拳突きであたしの頬骨を殴った。
 あたしは椅子ごとひっくり返った。缶ビールがどこかにすっ飛んでいった。
 それからの殴り合いの詳細は覚えていない。ラボのほうでパソコンを使っていたキルの仲間たちがあわてて止めに入り、あたしたちは引き離された。

  ***

 気がついたのは、硬いベッドの上だった。
 肘をついて起き上がると、身体中が痛かった。喧嘩してぶっ倒れたなんていつ以来だろう?
 床に近いところには、オレンジ色の常夜灯があった。広い部屋の中に、野戦病院みたいなごつい作りのベッドがいくつも並んでいるのが見て取れた。
「どこよ、ここ」
「………仮眠室よ」
 驚いたことに、すぐ後ろのベッドにキルが膝を抱えていた。
「私たちは、ほとんど眠らない。疲れすぎたときに少しだけ眠る。今夜は、あなたのお陰で、ここで反省しろって仲間に押し込まれた」
「あんたの返しがキツすぎたんだよ」
 キルは小さく笑った。そうすると、ひどく幼い少女みたいに見えた。唇の端が切れて血が滲んでいた。
「沖縄に潜伏しているときに習ったの。由緒正しい首里手しゅりてをね」
「きたねえな、本場仕込みかよ」
 街場の喧嘩で鍛えられただけのあたしとは、血統が違うってことか。
「二度と、誰にも、私に手を触れさせないためよ」
 キルは言い、ベッドの上に立ちあがった。あたしに背を向け、水色のタンクトップを脱いだ。
 タトゥ-に見えたが、違った。
 キルの背中に、幾本もの白い筋がのたうっている。乱暴に皮膚を裂かれた後、時間をかけて再生したものに違いなかった。引き攣れは腰の下まで伸びていた。
「あいつらに捕まったときに拷問された」
 キルは言った。「この髪も、短い間に真っ白になった。お陰でヘアカラーが良く入る。転んでもタダでは起きない」
「………もう、良い」
 あたしは言った。動悸がして、息がうまくできなかった。もう酒はやめよう。
「ねえ」
 キルはこちらを向いて言った。「PPSには、大陸の監視モジュールが提供されている」
「噂は知っている」
 あたしはうなずいた。白い傷跡の蛇をまとわりつかせたキルの乳房を直視できなかった。
「侵攻以来、表面上は経済制裁の泥仕合を続けているように見えても、自国民を徹底的に管理したいという欲望では一致している。企業レベルで技術提携し、それが行政システムにフィードバックされる。政体や主義なんて関係なく。クズ野郎どもよ」
「………あんたは、どうしたいの?」
 あたしは聞いた。
「PPSを再開させる」
 キルは言った。「あなたの持っている解析データを彼らに渡して。後は、彼らの技術者が軌道に乗せるでしょう」
「あんたは、それで良いの?」
 キルは唇を歪めた。
「再開後、あるプログラムが動き出すようになっている」
「どんな?」
「大量のポイント間連携を生成するプログラムよ。愚かな人間が作り込むバグをシミュレートしたような」
 キルは言った。「その先はあなたたちの手を借りたい。お得意のツールを駆使して、ポイントをPPSの全登録者に流して欲しい。つまりはこの国の全国民に」
「大盤振る舞いだ」
「カエサルのものはカエサルに、よ。還流後、私たちは掃除をして、バグを消し去る。証拠を残すようなヘマはしない」
「面白いね」
 あたしは笑った。
「停めたいのよ、この流れを」
 キルは言った。「それだけが私の望み。あなたも乗るでしょう? ミツキ」
 キルの顔が間近にあった。
 あたしは動けなかった。
 唇を合わせ舌をからめると、どちらかの血の味がした。痩せて見えるが、キルの身体は熱く、生き物の重みをもっていた。
 あたしたちは互いの中に溶けていった………。

  ***

 朝は静かだった。
 仮眠室のドアを開けると、家の中には誰もいなかった。脱台者たちも、ぎっしり並べられたコンピュータも消え失せていた。魔法が解けたみたいに。
 雨戸の向こうで、さえずっている雀の声が聞こえた。
「よお、起きたか」
 それだけ残されたキッチンのテーブルには、オッサンが座ってコーヒーを飲んでいた。
「皆は?」
 あたしは聞いた。
「プロジェクト開始にあたって、もっとセキュリティレベルの高い場所に移動するとさ」
 あたしは近づいていって、オッサンの腹を小突いた。カップからコーヒーがこぼれた。
「痛えな、何すんだ」
「いつからよ?」
 オッサンは、ストールマンとかいう親爺が印刷されたTシャツの横っ腹をさすりながら、
「侵攻直後くらいからかな。この業界、広いようで狭いだろう? しかし抵抗運動だぜ、なんて表立って言うのも、俺の美意識とは違うんでな」
 と答えた。
「面倒臭え」
 あたしは部屋を横切り、雨戸を開けた。
 山から流れてきた霧が、広い庭に渦を巻いていた。
 どこかで鐘の音がする。昨夜ゆうべの坊さんの寺なのかもしれない。
 胸の中には、キルの残り香が溜まっていた。いつかまた会えるんだろうか………。
「こっちも始めないとな」
 切迫感のない声で、オッサンが言った。
「分かってる」
 あたしは答えた。
 やるさ。犬は犬でも、あたしは猟犬だ。
 奴らに、ポインターの狩りを見せてやる。

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