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七十二候【桃始笑】(ももはじめてわらう)

 西日の横切る机で一人帰り支度をしておりますと、級友の千鶴子さんが桃の大輪を携えてお辞儀をするように扉を潜ってまいりました。と申しますのも、わたくしたちの学び舎には教壇の脇に古ぼけた花台が据えられておりまして、華道の心得のある生徒が持ち回りで花を生けておくという風習があるのです。
 今日は千鶴子さんの番でしたようで、素焼きの花瓶に鮮やかな桃色の花がまるで風景の一部を切り取ったかのように咲いております。

「紅子さん、お待たせしてしまったわね。ごめんあそばせ」
「いいえ千鶴子さん、わたし千鶴子さんの飾るお花が好きですもの。今日は一段と見事な桃の花ですこと」
「恐れ入りますわ。今日は七十二候の桃始笑(ももはじめてわらう)ですから、少し豪華にしてみましたのよ。授業中に気が散らないと良いのですけれども――」
 確かに桃の花咲くこの空間は普段の教室よりも随分と華やかに違いなかった。千鶴子さんの言う通り、この花台はあくまで教室に若干の華やかさを添えるためのものであったから平生は控えめに生けることが多いのであろう。
 けれども今日のはどうだろうか。学びの場ということを忘れてしまうほど、視線を奪われてしまうような見事な作りになっている。
「お見事ですわ。桃の花はこれくらい楽しくなくっては」
「楽しいというのは嬉しい表現ですわ。『花が笑う』と申しますものね」
 なるほど。いつもより豪華にしたのは千鶴子さんなりに七十二候の節気を解釈して表現したのかもしれない。
「それにしても、なぜ花が笑うというのかしら」
「あら紅子さん『笑う』も『咲う』も元は同じ言葉なのよ。文字通り、鳥が鳴くように花は笑うものなのですわ。花が咲くという状態の言葉は『開く』が古くはそれに当たるのかしら。桜の開花と申しますものね」
「さようでございましたのね。それにしましても、なんだか『咲う』というのは素敵な表現ですわね」
 改めて千鶴子さんの生けた桃の花を見てみると、確かに笑うという表現がしっくり来るように感ぜられるから不思議である。これが華道の腕前というものなのだろうか。素養がないから詳しくは分からないけれども――。
「ところで紅子さん」
 言葉に顔を上げてみると、花に負けじと口元に穏やかな笑みを咲かせた千鶴子さんの顔がそこにあった。
「紅子さんは桃の花を眺めるのと桃の実を頂くの、どちらがお好きかしら」
「花と果実、そうですわね――。」
 不意に投げかけられたこの質問は存外難問ではないだろうか。花を愛でるのは心が華やかな気持ちなるけれども、とは言っても桃のあの甘さの魅力には捨てがたいものがあるから難しい。
「そうね――、もちろん花を見るのは好きですけれども、ここは頂くほうかしら。瑞々しくて甘いですから暑い季節になりますと楽しみですわ」
 千鶴子さんはわたしの答えを聞くとクルリと裾を翻して、慈しむように枝を愛でながら桃の花に語りかけるように口を開いた。
「そう、紅子さんは命短き乙女よりも不老長寿の仙女の道を選びますのね」
 わたしがポカンとした顔をしていると言葉を続けて、
「桃の花は夭桃(ようとう)と申しましてうら若き乙女に例えられますわ。一方でその果実は不老長寿の仙桃(せんとう)ですもの。食べると仙人になるという幻の果実――」
「仙桃、わたくし手元にあったらきっとそれと気づかずに食べてしまいますわ。千鶴子さんは甘い桃より桃の花がお好きなのかしら?」
「わたくしは少々悩みますわね。一人で悠久の時を生きるのは考えてしまうかしら。だってなんだか寂しそうですもの」
 花に語りかけるその横顔は少し大人びて見えるから、微笑みの中にもどこか思慮深いものが含まれているように感ぜられる。これがわたしだと同じ言葉を紡いでもそうはいかない。世の中不公平である。
「そうね。確かにあまりに長い生は飽きそうですわね――、でも千鶴子さんと一緒なら仙女になるのも悪くないわね。退屈しないですもの」

 わたしはその言葉に千鶴子さんの返答を少し期待してみたのだけれども、ちょうど下校を催促するように鐘が重なってしまったから結局聞きそびれてしまったのだった。
「――さて、今日はどこか寄って帰りましょうか」
「わたくし桃の話をしていたら、なんだか甘いものが頂きたくなってしまったわ。カフェーにでも参りましょう」
「良いですわね。わたしは今日はドーナツにしようかしら」
廊下の硝子窓には春の日がまだ明るい。
花より団子の夭桃二人。仙人の境地には大分遠いに違いない――。

   夭桃や君の笑窪も甘く染む


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