移り変わっていく季節の中でその名前を呼べたのなら(小説)
何でも君のいうことを一つだけ叶えてあげるよ、
ある日気まぐれな彼はそう言った。
唐突なお願い事をするときには彼は大抵私を見ていない。窓の外で降り積もる落ち葉を見ながら、歌でも歌うように彼は呟いた。今は秋の終わり。それに呼応するかのように、付き合い始めてしばらく優しかった彼がなんとなく冷たくなってきたような気がしていた頃のことだった。
「この前のデートをドタキャンしたことへの償いのつもり?」
自然と語尾が強くなる。私は爪の先にきれいにトップコートを塗れてちょうど満足したところだったから、それに水を差されたようでひどく苛ついていた。「違うよ、ごめんね」との表面的な謝罪に少しだけ落ち着いて、彼の瞳を見据える。私の顔色を窺っているかのような澄んだ眼差し。
「いいよ、私の方こそごめん」
彼が先に折れてようやく私も素直になれる。
「何でいきなりそんなこと言おうと思ったの?」
「うーん、わかんない。君の言った通りの理由かもしれない」
「やっぱり」
「でもそれだけが理由じゃないこともわかってよ」
彼の名前は庭に舞い散る葉と同じ、かえで。私は春に満開になって木の下で騒がれるあの花と同じ名前だ。何だか少し不愉快に感じることもあるけれど、彼とはそんな縁で親しくなった。
「ねえ、さくら」
「名前で呼ばないでって言ってるでしょう?」
一応注意するけれどもやめてくれようとはしない。私もだんだん慣れてきて、実はそれほど名前で呼ばれるのが嫌ではなくなってきている。だけど牽制球は投げる。何度も。
「いいじゃない、可愛いんだから」
「…自分も名前で呼ばれるの好きじゃないくせに」
「まあ、そうだけど。君ならいつでもいいよ」
「いや」
「ふーん?」
意味ありげな表情で見つめられて内心焦る。
「この前さ、聞いたよ」
「何を」
「君が教授に、俺に教えてもらったからできるようになったとか嬉しそうに報告しているところ」
「や、や、やめて!」
羞恥に耐えきれず口を塞ごうとして、逆に手を捕まれてどきりとする。普段は優しいくせにこういうときの力は強い。それをすぐに緩めて、彼は手を離した。私は自由になった右手を何となく背中に隠して俯く。
「あれけっこう傷ついたんだけど」
「どうして?」
「何で俺には見せないんだろうって」
少しだけ試すような目で見られて、私は彼が冷たくなった理由を知ったような気がした。何となく嬉しいような、秘密を暴かれて居心地が悪いような心境になる。なんだか落ち着かない。
「…えっと」
「しかもなんか大層俺のことを褒めていたようだけど。何でそういうの彼氏の俺に直接言ってくれないの」
「……」
「そういうのも嬉しいんだけど。正直複雑だった、かな」
謝るべきなのかな?でも謝るようなことはしていないと思う。私はひとりで勝手に納得すると、プリーツスカートの裾をつかんでそれを整えた。仕切り直しのようにして考える。ずっと心に引っかかっていたこと、切り出すのなら今じゃない?
「だって、秘密だから」
「何が」
「二人で会ってるのがずっと秘密だったから」
「それはもうやめにしようねって話したでしょう」
「けど…」
それは付き合い始めた頃の彼との約束。学内の人たちには付き合っていることを知られないようにしようということ。今はやめた設定ではあるんだけど、好意を隠したり出したりするタイミングがそのまま変えられなくなってしまって、私は今でも混乱していた。
「いきなりやめるのも難しい」
「あーあれか、あの時は俺もいろいろ恥ずかしくて」
「関係をいきなりオープンにして周りの目が変わるって、けっこうストレスかも」
「…何かあった?」
「実はこの前違うクラスの知らない女の子に睨まれた。かえでくんと付き合ってるんですかって」
かえでくんはそんなことは知らなかったのだろう、目を丸くしてバツが悪そうに視線を逸らした。
「思い当たる節でもあるの?」
「俺だって何も気付かないわけじゃない。それで君は何て言ったの?」
「何も言えなかった。そしたら知らない間に仲良くなっていたなんてずるいって言われた」
「……」
「『かえでくん』、罪作りだね」
傷つける意図があったわけじゃない。ただ、その女の子に当たり前のように呼ばれている『かえでくん』という言葉にきっと嫉妬したせいだ。私がなかなか特別な意味で呼べないでいるその言葉に。
「やめてよ。そんな響きで俺の名前を呼ばないで」
妙に低い声で諭されてしまって、私はどうやら彼のご機嫌を損ねてしまったらしいことを知る。かえでくんは目を逸らしたまま、所在なさげに手を上げるとそれを自分の後頭部にとんとんと当てた。考えているときに出る彼の癖だ。
「…わかった」
「そういう意味で呼ばれても全然嬉しくないから。よろしくね」
「うん」
それでも彼は納得しないようで視線を合わせてはくれない。いい加減謝った方がいいのかな、と思ったときにかえでくんは急に上げたままだった手を私に向かって伸ばした。私は一瞬びくっと構えてしまうが、大人しく頬を撫でられる。
「ねえ、さくら」
「…っ」
「どうして付き合っているのをオープンにして、肝心の君が俺に心を閉じちゃったの?」
「えーと…」
「理由は何となくわかったような気もするけどさ…いろいろ無理させちゃってたんだね」
私はほんの少しだけ心が温かくなったような気がした。
「本当はずっとかえでって呼びたかったの」
「そうなの?」
「さくらって呼ぶようになってくれたから私もそうしようって。でもなんかそう意識したら逆に恥ずかしくなった」
「えっ」
かえでくんは急に脱力してそのまま私の背中に腕を回すと、肩に顔を埋めた。よくこうして甘えてくるので私はよしよしと犬を慰めるように彼の茶色い髪を撫でてやる。跳ねている毛先が耳を掠めて少しくすぐったい。
「……いいよ、呼びなよ」
「うーん…まだ無理。恥ずかしいから」
「わかった」
やけにこだわっていたくせに随分あっさり引くと思っていたらやっぱり彼はそうではないらしかった。突然体を離されたと思ったら、口元に笑みを浮かべていた。
「どうやったら名前で呼んでくれる?」
「えっ?さ、さあ…」
「何でも一つだけ言うこと聞くからさ、お願い!」
そこで冒頭の台詞に戻るわけか、と私は密かに頭を抱えた。かえでくんはやたらとにこにこして私を見ているが、こっちからしたらたまらない。
「じゃあさくらって呼ばないでよ」
「それはダメ」
「どうして?何でもって言ったじゃない」
「そしたら君が俺を名前で呼ぼうと思った前提条件がなくなるから」
彼は時々難しい言い回しを使う。まるで世の中は数学の証明のように、どこまでも理論づけて説明できると信じ切っている人のようだ。
「だって他には特にないもの」
「え!?じゃあ俺だけお願いしてるみたいでなんか不公平じゃない」
「実際にそうなんだと思うけど」
こういう時にいつも彼はわがままだなと思う。だけどどうしてだろう、くすっと笑えてきてしまうのは。
「もう、いい」
「えっ?」
「…外が寒いから、手を繋いで帰って。お願いごとはそれだけ」
「やった!」
「かえでのこういうところ好きじゃない」
私が照れ隠しに呟いたその一言に一瞬びっくりしたような顔をした彼は、少しして「ありがとう、さくら。これからも大好きだよ」と返してくれたので、ざらついたような気持ちが消えていった。今までの名前に関してたくさんあった違和感は何だったんだろうと思うほどに。
二人で手をつなぎ、音を立てて落ち葉の上を歩いて行く。今度は彼の名前をどういう響きで口にしようか。できたらもっと優しく甘いものにしたい。
これも過去作より。発掘してこんなのあったんだとびっくりしたので、記念に投稿してみる。どこにも出していない作品を公開できる場所があることに感謝。少しでも楽しんで頂ければ。
今風に言えばツンデレ彼女とわんこ系彼氏というのかな?
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