『排除と包摂(タイトル略)』の著者が「伴走型支援」の現場に行ってみた
1 自己紹介
宇宙に向かうロケットが飛び立つには、ロケット機体そのものの準備ができたうえで、天候や資金や関係者の意欲といった諸条件が揃わないといけません。
本も同じようなものだと思います。
『「排除」の構造とコミュニケーション論的「包摂」』が出版されることになりました、本多敏明です。どうぞよろしくお願いします。
amazonのページには「きっちり」した紹介文があるので、ここではふんわりと雰囲気で本の紹介をさせてもらいます。
本書は、あまり楽しい・感動する本ではありませんが、厳しい世の中でも生きていかないといけないなら、自分だけでがんばるよりも、本当は誰しも口に出さないだけで人の手を借りたいし、人の手を借りたほうがより頑丈になれるし、救われるので、人に手を貸したり借りたりなど人とつながること自体が大事な世の中になっていますよね、ということを書いた本です。
冒頭のロケットの話になぞらえると、ロケットの機体(内容のベース)は社会学のコミュニケーション(・システム)論ですが、今この時期にこのような本を出版できた大きなきっかけ(社会状況と著者の意欲)のひとつは、北九州市で主にホームレス支援をしていらっしゃる方々の「伴走型支援」を知ったからでした。
「伴走型支援」を知って、本書のベースとなる視点が時宜にかなうのではと直観したからでした。
伴走型支援とは、
「問題解決の支援」だけでなく、問題が解決した後も、また問題が解決しなくても問題を抱える人に「つながり続ける」支援のあり方を指します(近年では、生活困窮者支援分野だけでなく、子育て支援や認知症高齢者支援分野でも、用いられています)。
というわけで、本書の紹介目的の本記事ではありますが、本の内容ではなく、「伴走型支援」の実際を見学させていただいた時のお話を書きつつ、その内容を紹介したいと思います。
2 認定NPO法人「抱撲」と「伴走型支援」
2024年2月9日(金)晴れ。13時50分、@JR小倉駅に到着。余談ですが「北九州駅」って存在しないんですね。
訪問先は、1988年より北九州市で主にホームレス支援の活動をおこなっている認定NPO法人「抱撲」(ほうぼく)です。
理事長は奥田知志さん。
関心のある方は、詳しくは「抱撲」のサイト、とくにぜひとも「希望のまち」プロジェクトの紹介動画をご覧ください。
参考:「8分でわかる希望のまち」https://www.youtube.com/watch?v=zT2BViR44L8)
こちらの写真は「希望のまち」予定地になります。
そしてこちらは
奥田さんが牧師を務める東八幡キリスト教会の外観(上)と屋内(下)です(筆者撮影)
ちなみに、この本も、上記のとおり奥田さんらの活動に大きなエネルギーをいただきましたので、印税の半分ほどは「希望のまち」プロジェクトかNPO法人「抱撲」に寄附いたします。
本書を読みたいと思ってくださり、また「希望のまち」に寄附もしたいと思われた方には一挙両得というお気持ちでご購入いただければ幸いです。
というわけで、一度参加して間近で拝見すべく「抱撲」の活動の原点ともいえる「炊き出し」と「夜のパトロール」(安否確認など)に初めて参加させていただきました。
3 「お弁当」の意味
炊き出しは、北九州市役所の目の前にある勝山公園内の「子ども図書館」前で実施(写真中央の建物の裏側が炊き出し会場です)。
(今回、写真があまりありませんが、初参加の人間がバシバシ写真を撮ると、「こいつは何しに来たのだ?」となりますので、写真はなるべく控えた次第です。)
何もなかった場所に「炊き出し」「健康相談」「服」「散髪」と4つのブースができあがりました。
私は「炊き出し」ブースで、ゆでたまごを配る役割を任せていただきました。
炊き出し開始前に、行列に並んでいる方々とスタッフらしき方は、もう顔見知りのご様子で、「寒いね~」「この前の話どうなった?」など、いくつか聞こえてきました。
当たり前ですが、ただ「お弁当」を「渡す―受け取る」いっときの関係でもないし、「支援するー支援される」と上下一方向の関係にならないよう意識的に関わっている印象を受けました。
大げさかもしれませんが、こういう小さい点にも「伴走型支援」の一端が垣間見えるような会話でした。
炊き出しは「お弁当を配る場」ではなく、支援を受ける人と「抱撲」の関係をはじめるきっかけだと思いました。
奥田さんは著書のなかで、炊き出しに並ぶ人は受け取ったものを「お弁当」と応えるのに対して、野宿状態の人は自らが食べるものを「エサ」と呼ぶ、と紹介しています(奥田知志、2021年『伴走型支援』、有斐閣、189頁)。
その違いは「人とのつながり」があるかないかだと奥田さんは指摘します。
「何を」食べたかは変わらなくても、「誰と」食べたか、「誰から」もらったか、「人とのつながり」があるかないかで決定的に異なる。
奥田さんのこうした指摘は、ホームレス経験のない人にとっても身につまされるものではないでしょうか。
4 いざ!「ゆでたまご」担当
さて、自分の役割。
この日は準備されたお弁当が120食+ゆで卵120個+パン3個入り1袋+保存食ビスケット1箱の陣容でした。写真の他に、お茶のペットボトル500mlもありました。
19時10分すぎ。
スタッフの方より炊き出し開始のご挨拶。情報誌「越冬かわら版」が一人ひとりに配布されており、本日は主に低所得世帯や住民税非課税世帯への給付金(7~10万円)が始まるので、申請手続きがわからない方はスタッフに相談してくださいと呼びかけられました。
挨拶が終わって、炊き出しスタート。
受け取る順番は、最初にビニール袋に入ったお弁当、次にゆでたまご、パン、非常食クラッカー、お茶(ペットボトル)。メニューは日によって異なるようです。
私(ゆでたまご)は2番手。お待ちかねの方々を待たせぬように、小声で「どうぞ」と言いつつ、ビニール袋にささっと入れ、次の方にもささっ。
なにかお声がけしたいのに何と言ってよいかわからなかったですが、隣のスタッフの見様見真似で「こんばんはー」とだけ。
スタッフさんの多くは顔や名前もお互いに知っている方が多く、ときに会話をしながら。
そのとき、1番手のお弁当スタッフが「今日はゆでたまごもあるよ」とおっしゃったところ、「え、ほんと!」と受け取りに来た方の嬉しそうな声が聞こえてきたので、途中から私も「こんばんはー、ゆでたまごでーす」と意気揚々と渡すと、「おーいいねー」とアルミホイルのなかに隠されたまだほんのり温かいゆでたまごの姿を想像してテンションが上がった笑顔を多くの人がこぼしていました。
……でも、待ってください。
皆さんは、例えば今日の夕飯にゆでたまごが1つ追加されたら嬉しいでしょうか?
しかも、アルミホイル(保温用)に包まれたゆでたまごって、私は食べたことがなかったので、いま振り返るとなぜあれほど喜んでもらえて、私自身も「渡し甲斐」を感じたのか疑問です。
お弁当やパンに比べたら「作り手の労力」がゆでたまごにかかっているわけではないですし。もちろん120個のたまごを茹でる作業はかなり大変ですが、調理という手間はあまり多いとはいえません。
でも、炊き出しの最中にみんながアルミホイルにくるまれたゆでたまごに感じていたことは、子どものころ近い距離に親がいてくれたあの感じでした。それをホワワワ~ンと思い出させてくれるようなそんな趣を持ったアイテムだったのです。
ゆでたまご担当になれて役得でした。
炊き出しが問題なく進んでいるなか、途中、たまにお弁当の袋を2つ持っている方がいたので、正直「あれ?ゆでたまごも2つ入れてよいのか?」と迷っていると、怪訝な私に気づいたその方は「来れない人の分なんだ」と袋を広げつつ教えてくれました。私の躊躇に気づいた近くのスタッフからも「足腰が悪くてここまで来られない人に代わりに持っていってくれるの」と、今日来ていらっしゃらない方の顔が明らかに浮かんでいるご様子だったので、なるほどと気づき、その方にも届けとばかりに、ゆでたまごを2つお渡し。
約20~30分ほどで行列も途絶え、残りの数を数えたところ、この日は102食の配布でした。
受け取りに来られた方々は、私がみた印象では、60歳以上が大半。70歳以上と思われる方も少なくない。なかには30~40代とおぼしき方も3~4名ほど、女性は1人だけいらっしゃいました(記憶の限り)。
その後、炊き出しを受け取りにこられた方やスタッフでお茶会、後片付け、スタッフ・ボランティアの終わりの会で、解散しました。
5 「炊き出し」を終えて
炊き出しに参加させていただき、「お弁当」から関係がはじまり、次第に顔なじみになり、相談ができる関係がここから立ち上がっていくのだろうと感じました。そういう意味では「伴走型支援」の一端を垣間見ることができた気がします。
また、お弁当を受け取りに来られた方たちは身体的にも精神的にも、私が思った(勝手な予想ですが)以上にお元気で、スタッフの方々との会話も聞こえてきました。
でも、そういう人たちが北九州市に「いない」わけではないことは、この後の「夜のパトロール」で知ることになりました。
そして、そこでこそ「伴走型支援」の1コマをより見せていただきました。
スタッフの方たちは、路上で過ごす方たちを探し、やわらかくそばに寄り、相手の目線を拾い、自らの名を名乗り、初めてのお相手なら名前を教えてもらい、困ったことがないかを尋ね、また訪ねることを約束していました。
そちらはまた別の記事ででも・・・。
6 伴走者と包摂
というわけで、ホームレス状態をはじめとする「排除」と呼ばれる困窮・孤立状態にある人がますます増える現在において、必要とされる支援のかたちが「伴走型支援」だと思います。
人とのつながりがなければ、支援の制度・政策だけでは、本当の支援にならない状況が現在の課題だといえます。
伴走者が必要。
そういうことを(コミュニケーション論的)「包摂」と本書では名付けました。
何度も社会からはじかれ・傷つけられた自分でも、もう一度、社会で・人とともに生きようと思えるとすれば、伴走者とのつながりや出会いが最低限必要ではないか。
そう問いかけられているように思います。
本多 敏明 (ほんだ としあき )
1980年福島県生まれ。淑徳大学コミュニティ政策学部准教授。 岩手大学人文社会科学部、淑徳大学大学院総合福祉研究科を経て、現職。 [著書]『臨床社会福祉学の展開』(共著、学文社、2015年)、 『コミュニティ政策のはなし』(共著、成文堂、2013年)など。
『排除の構造とコミュニケーション論的包摂』著者
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