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共に歩いてくれる友だちの作り方--介助してくれる人たちとの歴史からわかったこと

塩出 真央

僕は生まれつき助けなしでは歩けません。だから、階段は怖くて、一番の敵といっても過言ではありません。そして、新しい環境に飛び込むときの不安の大部分はここ。共に歩いてくれる友だちができるのか…に集約されます。

僕の人生は介助してくれる人たちとの歴史でもあります。

生まれてから8歳まで過ごした兵庫県宝塚市は、福祉に対する独特の積極性、大きな視点があり、私の積極マインドの基礎をつくってくれました。そこで今回は、そんな僕が、どうやって共に歩んでくれる友だちをつくってきたのか、介助してくれる人たちとの歴史からわかったことについて書いてみたいと思います。

塩出 真央:1989年岡山県生まれ。先天性脳性まひ。8歳までを主に宝塚で過ごす。義務教育の9年間は、普通学級で過ごしたくさんの前例をつくる。高校は岡山養護学校に進み大学進学。四国学院大学社会学部卒。在学中は映画・演劇を中心に学び、9歳から志す作家の夢に向け研さんを積む。詩作家。

宝塚でのこと

宝塚市は介助犬(補助犬)発祥の地とされています。今ではさまざまな"働く犬”がいますが、車椅子生活の木村さんが介助犬シンシアと活動をはじめた1990年代は、スーパーやレストランではシンシアの同伴を拒否されたといいます。

そんな苦境にもめげず、木村さんは使命感を持って行動範囲を広げていきました。その努力が実って2000年に宝塚市が「シンシアのまち」宣言をし、2002年には身体障害者補助犬法が施行され補助犬の同伴受け入れが義務化されるようになります。木村さんとシンシアの頑張りが法制化には欠かせないものでしたが、宝塚のまちにも、異質なものを排除しない、共生の文化が根付いているように思います。

自身の話で言うならば、母親の強い希望があったと思いますが、僕は、とくにもめることもなく、宝塚市立の幼稚園に入園することになります。これは偶然なのですが、園長先生が元々支援学校の教員だったこともあると思います。僕は、面接で先生たちが聞くことに笑って応えただけでしたが、「この子だったらやっていける、支援学級じゃなくて大丈夫」と受け入れがすぐに決まったそうです。入園後は当事者である僕も、嫌がることもなく喜んで通ったそうです。今になってふりかえれば、よくやったなと思いますが・・・。

そして、小学校。何のハードルもなく普通学級に入ることになります。僕が入学するタイミングでエレベーターもつき、当時はめずらしかった支援員もつきました。ただ、これも、宝塚ならではのことで、僕と同じ立場の先人たちが、その必要性を根気強く訴えてきてくれたから。果報は寝て待て(笑)、 棚からぼたもちとはこのことです。

さらに、義務教育期間中に宝塚から岡山に住所を変えることになるのですが、その時も、当時の女性教育長さんが「この子は普通学級で普通以上にできる」といった内容の親書を、転校先に向けて書いてくれました。

僕の積極マインドには、こういう恵まれた背景がありました。どういう自分になれるかは自分の取り組み次第ですが、環境の影響もそれと同じぐらい大きいと感じます。自分の良さをだせるようにする戦略としても、適切な場所を選ぶことは大切なことだと思います。

自分に集中する。

僕は、小中学校の9年間は、PCWという後ろに背もたれのあるドイツ製の歩行器を使うようにしていました。当時は何も深く考えずやっていましたが、自力で這いつくばって階段をのぼったり、頭からほふく前進でおりることもありました。当時は、体脂肪率10%という目標もあったため、サッカーにも熱心に取り組んでいました。難しい条件でひたむきにハイゴールを目指す姿勢が、「コイツもがんばってるんだ」というポジティブメッセージとして伝わったのか、介助が必要な時には、いつも自然に手を貸してもらうことができました。

僕は歌を歌うことも大好きで、音楽室で思いっ切り歌を歌うことも、そして、階段をのぼった先でクラスメイトと味わう達成感も、僕の大きな原動力です。介助の遠慮や雑念を脇に置くのは自分自身を肯定する作業だから、“好き”や“やりたい”は強いほどいい。そして、そこがしっかりすると、自分はどうしたいのか、どんな風に困っているのかを伝えられるようになると思います。

そして、介助に手を貸してもらえたら一歩前進。こうしたサポートの関係が友だちに発展することが少なからずありました。

たとえば、

“おんぶ”してもらえば、その友だちの背中からいろいろなことが伝わって来ますし、抱えてくれた相手も、多分、なにかを受け取ってくれています。また、男子が見当たらない時は、女子が体格の良いパワー系男子を捕まえに行ってくれたのですが、そんな時は、ちょっと恥ずかしいようなドキドキ感が、僕だけでなく、捕まえられた男子たちにも伝わります。

「青春って密なので」、楽しい気持ちをはじめ、さまざまな温かいものを共有できたように思います。こういった感覚を共有できる場所だったからこそ、僕は学校が楽しかったし、彼/彼女たちも、介助を、そして友だちでいることを続けてくれたと思います。

新しい環境におかれると、周囲から浮かないように無難な選択をしがちです。ですが、僕の経験から言うと、無難であることよりも、自分に集中して突き抜けることが、繋がる近道のように思えます。友だちをつくるためにも、好きなことを見つけて没頭したり、目標を持つことが重要なのだと思います。

鉄則Give and give and take

こんなポジティブな体験をもとに、高校もなんとかなるだろうと楽観的に考えていた僕ですが、入学を打診した高校からは“階段”を理由に断られることになります。この時の落胆は大変なものでした。僕らの経験で「階段」は、さまざまな障がいを分かち合い、理解を深める絶好のチャンスでしかなかったのに。超えることができなかった「壁」ならぬ「高校の階段」。崩し難い大人の事情に唖然としたことを思い出します。

こういった体験と同時期に、僕は手術やリハビリで入院することがありました。その際には、母から介助をしてもらう際の心構えなどを徹底的に叩き込まれました。具体的には、気持ちの良い関係をつくるための挨拶やお願い・お礼の仕方なのですが、人生の先輩でもある母の教えは、社会の荒波に揉まれるようになると、とても有用なものでもありました。自分でも、この教えはHelpをお願いする際の三種の神器だと感じています。

ただ、こういったお願いする側の心構えは、忙しく働き、お金を稼げることに意味がある社会のなかで、介助に時間をもらうことの息苦しさの現れでもあります。いかに対等な関係でいられるか。そこが僕の友だち作りの大きなテーマでもあります。

ということで、僕が出した答えは、“Give and Give and Take"。

確かに、遠慮してgiveばかりになることはいけないと思いますし、卑屈になる必要もない。そして、こうやってtakeしなければいけないというルールもありません。ですが、介助してもらう関係の中で、障がいを持つ人と持たない人が対等であることは、気が遠くなるほど難しい。だから僕はgiveをもう一つ重ねたいと考えるのです。

「するーされる」を乗り越える

僕が実践するもう一個のgiveは、関係を続けていくための配慮や努力を、こちら側がするということです。ウィンストン・チャーチルは “人は得たものによって生計をたてるが、与えるもので人生を切り拓く”と言っています。

子どもの時のような密な関係を持ち難くなった今は、温かい機微に触れあう時間もなく、してもらうだけの関係で終わりがち。だからこそ、僕との関係が相手にとって有意味なものに化学変化してくれるよう、関係を続ける努力をするのです。

相手の話をしっかり聞き、基本的には笑顔で相手を肯定し、そんな中でも、どうしても距離を縮められない相手の場合は深入りはせずに距離をとる。さらっと書きましたが、結構僕は失敗もします。それでも諦めず、面白いことのひとつも言って楽しい雰囲気をつくりたい。そんな努力をしています。

なかには、そう言った努力が必要なくなった仲間もいます。大学からの友だちの場合は、小中学校の時ほど関係の濃密さはないにしても、僕との関係から多くの意味を受け取ってくれ、大学を卒業した今でも、対等な関係を維持してくれています。同窓会にかならず呼んでくれて、広くて、お手洗いが使いやすい居酒屋を予約してくれて、介助もしてくれる友だち。大学時代から何でも話し合え、野球にものすごく詳しくて、1回あたり2時間、本当は何時間でも話せる友だちたち。僕は本当に、友だちに恵まれています。

僕は、友だちからの贈り物で階段をのぼることができ、友だちは、介助がつきまとう僕との関係から、人生を切り拓く何かをみつけてくれたのかもしれない。贈り物は贈り物となって自らのもとに戻ってくる。これが僕の友だちのつくりかた。オリジナルの戦いかた。

さあ春です、みなさんも一歩踏み出してみませんか。





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