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ある日のカフェにて起こったことから考えたこと

ポチャ…
「え!」「…」

「すみませ〜ん」
「はい、どうされました」
「ここ水が張ってあるんだね」
「ええ。… あっ!」

先日、初めて訪れるカフェに行った時のことだ。
窓ぎわの席を選び座ろうとした際、着ていたダウンを脱ぎ、横にあったガラスのサイドテーブルの上に置こうとしたのだ。
てっきりガラス天板だと思い込んでしまった。
一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。
それでもすぐに「マジか」
そう、そこには薄く水が張ってあったのだ。
お店のスタッフが丁寧に拭き取り、店内の薪ストーブの前で乾かしてくださった。

改めて良く見てみると、ガラステーブルを使ったオブジェの様だ。多分、アートなのだろう。
水がポツリポツリと滴るはずの蛇口が、窓上の壁に配置されていた。そう「はずの」
今は、そこから水が滴ってはいない。
想像するに、そこから滴った水が下のテーブルに張った水へ落ち、緩やかに波紋を広げる。そんな趣向なのだと思われる。
そうなっていれば、それはさぞ素敵だったことだろう。

仕事がら、店舗設計やデザインに触れる機会が多い。そのためか、店舗の内装などが大いに気になる。「おっ、ここの内装、けっこう金掛かってるな」とか「今流行りの素材を使っているな」とか。壁のテクスチャーに触れ「この素材いいいな。でも高価そう」などと撫でまわし、妻に咎めれることもしばしばだ。

そうして見て行くと、デザイナーの良し悪しといったところも、私見ではあるが見えてくる。
デザインの方向性には好みがあるので、自分の趣味と合う合わないで、デザイナーの良し悪しを言っている訳ではない。
デザインの実用性への配慮の問題だ。

デザイナーによって創り出されるその場所では、当然そこで仕事をしたり、暮らしたりする人達がいる。
デザインはアートとは違うもの、そう理解している。
デザインとして生み出された物や場所は、それを使う人達に配慮したものであるべきだと思うのだ。
方やアートには、他者に対しての配慮は無用だ。訴えたい事を極限まで突き詰めるものなのだろう。
まぁ、プライベートな空間であれば、何を優先するかは人それぞれだとも思うが。こと店舗に至っては、そこに関わる全ての人達対し、ある程度の配慮は必要なのだと思う。

以前、『和』の趣を感じさせる居酒屋に行った時のことだ。最近、人気のお店とのことだった。
誘ってくださった知人としばし談笑。失礼して用をたしに厠へと向かった。
竹を配した通路を抜け、いざその場に入ってみると、なんと便器が存在しない。石畳の足場の先には、びっしりと玉砂利が引き詰められている。
多分、この玉砂利をめがけ用をたせということなのだろう。

「トイレはどんな感じになりますか」
「トイレは、『和』をより強調するために便器を置くのをやめましょう」
「えっ!便器を置かないんですか…」
「便器の代わりに玉砂利を引き詰めます。トイレは意外と印象に残る場所です。インパクトありますよ。ワビザビってやつです」
「清掃は…」
「流石です!それで行きましょう」

そんな会話があったかどうかは分からない。
しかし、デザインを考える時、それを使うお客、そしてそれを管理するであろうスタッフのことを考えることはやはり大切なのだと思う。

実際おれは「なんだか小便が跳ねそうだな」とか「お店の人、清掃するの大変だろうなぁ」など考えてしまい、気持ちよく用を足せるどころではなかった。
まして「すてきだな〜」などとはまったく思わない。
ただ管理するスタッフがきのどくに思ってしまった。

先程の水を張ったテーブルも然り。
来た客の「まぁ、素敵」も大切だが、それを管理し続けるスタッフへの配慮がもう少しあってもいいのではないかな、と思ってしまう。
それと自分の様に間違ってしまうお客のことも。
実際、少なからずいるらしい。
まぁ、自分の不注意が基本悪いのだが。

ただ、出来上がりの見栄えの先に、回避できる不便や、それを使う人達へ配慮したデザインが素晴らしいと思うのだ。
カッコイイだけのデザインなら、意外とできるデザイナーは少なくない。でも、そこで働く人、そこを訪れるお客への配慮も考えつつ、素敵なデザインとして落とし込むデザイナーは意外と多くはないのだ。

「うわ〜、細やかな配慮、気配りが行き届いてる。お店のコンセプトとぴったりだ。それでいてこのデザインそのものがカワイイ」
そんなデザインに出会うと本当に尊敬してしまう。

#エッセイ #コラム #デザイン #アート #店舗
#カフェ #日記


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