自慢のためではなく、自由のための教養

前回:あらゆる問題の根底にあるのは絶対視?

1. 学校

1-12. 自慢のためではなく、自由のための教養

これまで学校という話題から、大学や協調性、自分の頭で考えるなんてことに話を進めてきた。もう学校についての話は終わりにしようと思うのだけど、やっぱりこれだけは外せないや。「なんのために学ぶのか?」

俺が勉強って言葉を嫌いなのはもう伝えたから学ぶって言葉を使わせてもらうけど、これは学校に入って勉強に出会った子どもがよくする質問の1つみたいだ。それにしても子どもは親や先生にすぐ「なんで?」と理由を聞こうとするんだからすごいよなあ。

「なんのために学ぶのか」だった。 2つの答え方が思いついた。

まずは、「その質問自体が実は適切じゃないんだよ」って答え方。いや、こういう質問をできるのは素晴らしいことなんだけど。ただ、なんのためにって目的があって学ぶのではなくて、学ぶのが人間なんだ、学び続けずにはいられないのが人間なんだっても思うんだ。

今度外に出たら赤ちゃんを探して観察してごらん。赤ちゃんは世界のどんなことにでも好奇心旺盛な眼をして、一生懸命に楽しそうに学んでいるから。けれど大人になる過程で勉強という学びの強制とか、変わる気のない大人の考えを浴びたりしてるうちに、そういう好奇心とか学びたい欲が消えてしまう人も多い。それでも80歳とかになっても赤ちゃんに負けんぞ!みたいな好奇心で学び続けてる人もたしかにいる。やっぱり研究者や起業家にはそういう人が多い感覚はある。俺は大学生になってからやっと気づいたけど、学ぶって楽しいんだよな。

2つ目の答え方は、「人生の自由度を高めるため」だ。大学の話をしているときに、「教養ってのは掴みづらいけど、人生の自由度を高める知識あるいは視点」だって紹介した。学ぶことで教養を育てられる。そして、人生の自由度を高められる。自由についてはまた後で話そうと思うけど、自由度は簡単に紹介しておこう。実は自由度って言葉は数学の専門用語なんだ。こう書くと難しそうな気がするし構えちゃうかもしれないけど大丈夫。

A = 1 ・・・①

このとき、Aってなんだろう。ばかにするなって思ったかもしれないけど、ちょっとつき合ってほしい。まあAは1だ。これはどうしようもない。じゃあ次。このときAはなんだろう。

A + B = 1 ・・・②

決められないよね。Aは0.3でも0.9でもいい。つまりAは自由になったわけだ。①のときは、Aは1にしかなれなかった。でも②でBが増えたことでAは自由になれた。BはA次第で値が決まっちゃうから囚われの身だけどね。さらにCが増えたらどうだろう。

A + B + C = 1 ・・・③

今度はAもBも自由になった。自由度っていうのはこういう自由な変数の数のことなんだ。もうわかると思うけど自由度は変数の数より常に1少ない。

教養は、自由度を高める視点だと言った。つまり教養ってのはAとかBとかCのことだ。そういう風に視点が増えていけば自由度は高まっていく。

今回1ってしたのは現実世界ではなんでもいい。足元のツクシから、凛と輝く月でもなんでもいい。同じ月をみるのでも、ただ「月だ」と思うだけの人もいれば、月の美しさに気がついたり、模様がうさぎに似ていることに気がついたり、本当は月自身の光ではないことを思ったり、潮の満ち引きを思ったり、月を見ながら詠んできた人々の暮らしを思ったり。

視点が多ければ多いほど、人は色々な見方をできる。色んな世界に入っていける。だから、学ぶってのはとってもおもしろいことなんだ。

学ばない人には当たり前の日常でつまらない風景も、学べば学ぶほど目の前の世界が面白くなってくるんだ。逆に言えば、そういう目の前の風景から何も発見できない人はまさに①の状態だ。視点がAに固定されてるから1に当たるモノゴトを1つの決まった場所からしかみれない。自由度は0だ。学び、教養を育てることで君は目の前の世界の色んな姿を自由にみることができるようになる。

教養はまた、生まれという縛りからも自由になる翼をくれる。例えば、君がアフリカの貧しい農家に生まれたとしよう。君が大人になっていく中で得る視点はほとんど親の視点だろう。親はたとえ貧しくても朝から夜まで作物を育てるのが普通であり、人生そういうものだと思っているかもしれない。そうすると君も子どもの頃から大人になるまで農業をしていく可能性がとても高い。

でも同じ境遇でも、君の教養を育ててくれる人や本に出会ったり、自分自身で考え始めたりするとどうなるか。君はもっと違う生き方を考えられるようになるし、そうなるためのアイデアを得ようと努力するかもしれない。そして、君はどっかの都会に出てさらに学び、研究者になったり、起業家になったり、作家になったりするかもしれない。そうやって稼いだお金で親を助けたり、その貧しい農村地帯の暮らしを良くする活動を始めるかもしれない。

教養は生まれという縛り、運命から自由になる力を与えてくれる。

ただ1つ、君が順調に教養を育てていったときに厄介な壁にぶつかるかもしれない。それは、君が親より豊かな教養を手に入れたために、親の見方が障害になるという問題だ。このとき、君は親がなぜそのような見方をするか、そしてなぜ自分の見方の方がより良いかを知るだろう。だけど、論理で説明しても感情的な対立を生んでしまうかもしれない。親子関係というのは特殊で難しい。

ここで、俺から君に数少ないお願いをしておこうと思う。もし、このようなことになったら、俺の元を離れ自立するんだ。ここでの自立は必ずしも金銭的な自立を意味していない。金銭的にも自立できれば素晴らしいけど、まずは物理的に親と離れることだ。悲しみ、さみしさがないと言ったら嘘になるんだろう。それでも、俺はそういう日が来ることを望んでいるよ。親の世界から自由に飛び立つこと、それは子にとって1つの大きなマイルストーンだから。

BBCの『プラネットアース』という番組に衝撃的な映像がある。それは、生まれたてのウミイグアナの赤ちゃんにいきなり立ちはだかる試練を撮ったものだ。Youtubeで観れるのでぜひチェックしてみてほしい。

ウミイグアナの赤ちゃんが卵から孵り初めて地上に出、陽の光を浴びるとき、彼らは同時に死の目線も浴びているんだ。大量のヘビが赤ちゃんを狙ってるんだ。ウミイグアナの赤ちゃんは生まれたら、おびただしい数のヘビをかわして、安全な高台に逃げなきゃいけない。けれど多くの赤ちゃんはヘビに捕まり、食べられてしまう。

この映像をみるとこんなにも厳しい世界があるのかと、呼吸を忘れるほどだ。中でも俺の印象に残ったのは、プロポーカー顔負けの落ち着き払ったある1匹のウミイグアナの赤ちゃんだ。彼か彼女かわからないけど、その赤ちゃんは地上に出てからじっと冷静に周りの状況を観察し、ベストなタイミング、逃げ切るルートを考えていた。この赤ちゃんの顔つきは赤ちゃんなんて呼ぶには失礼で、当時大学院生だった自分も敬意を持たずにはいられない目つきと風格を纏っていた。

同じ赤ちゃんとは言え、ウミイグアナや馬の赤ちゃんは生まれてすぐにかなりのレベルで自立している。そりゃもちろん人間は赤ちゃんをじっくり育てていく方向に進化してきたのだから、同じように自立しろというのはナンセンスだ。

けれど、それでも20歳を超えてまで自立できないのが人間かと言えばそうじゃない気がする。たぶんそれは文明による圧力だ。たぶん自立は早いに越したことはない。だから、君とたくさん遊びたいと妄想する一方で、君が巣立っていく日を楽しみにもしている。

「うちの子はいつまでたっても自立しない」なんて嘆いている親がよくいるけど、たいてい自立できないのは親の方なんだ。子が親から自立するより、親が子から自立する方が難しいはずだ。俺は君の障害にならないよう気をつけようと思う。けれど、これだけ意識してもダメだったなら許しておくれ。きっとそれが愛ゆえの親の不器用だ。「それはそれで人間らしくていいな」なんて思って飛び立ってくれればいい。

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