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本を読むこと。 ~ トルストイの人生論に学ぶ ~

私の人生に影響を与えた一冊を紹介する「本を読むこと。」、今回、御紹介する本はトルストイ著の「人生論」です。

トルストイの人生論は1886年から87年にかけて完成されたものです。

トルストイの人生の前半の作品が「生命」への主張と陶酔への営みだったとすれば、後半生は死の肯定と、不安の払拭と言われています。

ロシア文学を代表する小説家トルストイが晩年に辿り着いた人生観、世界観が詰まった「人生論」について考えてみたいと思います。

人間とは

トルストイは人間は理性的な存在であり、生物のそれを超えた存在であるべきだと考えます。

生命を理解するために物質の運動として表に現れる現象のみを観察すれば生命そのものの法則や人間の生命の法則も必ず発見されるとする科学研究の見方を明確に否定しています。

このうわっつらな観察の認める生物の目的というのは、自己の保存とか、種の保存とか、生殖とか、生存競争とかいったようなものであって、そんな途方も無い目的を人間にむりやりおしつけようというわけである。(中略)この偽りの科学の結論によると、人間の理性の意識などまったく否定され、認められていないばかりか、人間の生活は動物の生活とぜんぜん変わることところがなく、個人と種族の生存競争にすぎない、ということになるのである。(新版 人生論 54項より引用)
新板 人生論 54項より引用

トルストイは人は理性をもって幸福を探求することが「生きる」ことだといいます。

人はまず、人生の目的として動物としての種の繁栄や自分の子孫の残すなど自分(個人)の幸福を考えますが、やがて個人の幸福は他人によって左右されるということを知ることになります。

「互いに滅ぼし合ったり、みずから亡びていったりするおなじような無数の個性のなかにたちまじって、人が自分の幸福だけを求める個人として、生活することは不幸であり、無意味なことである。」

このように考えた昔の賢人たちは生物としてのヒトと理性をもったヒトの内面に存在する矛盾について語り、人間の幸福を明らかにしてきたといいます。

トルストイは孔子や老子、キリストら賢人らが語り継いできた人生の定義について引用しています。

「人生とは、人々の幸福のために、天から人々のうちにくだった光が、あまねくゆきわたることである」
孔子

「人生とは涅槃に到達するために自分をすてることである」
仏陀

「人生とは幸福になるために、謙遜と卑下とに徹する道である」
老子

「人生とは、人を幸福にする理性にしたがうことである」
ストア派哲学

「人生とは、人を幸福にする愛ー神と隣人にたいする愛にほかならない」
キリスト

このような超自然的な人生観が太古から現代にも脈々と受け継がれているということは、これらが人生の真の幸福に関する問題に真面目に答えているからであり、多くの人々の共感を得ているからだといいます。

つまり、トルストイの考える人間とは肉体と肉体に宿る動物的な意識を超自然的な人生観を持って理性に従属させることができて、理性によって動物的な自我を否定し、愛に生きることができる存在であり、それによって同胞との生存競争の悲劇や死の恐怖から逃れることもできるものということです。

人生の意味について

先にも述べたように、人間の真の生活は、動物的な自我をおさえようとする理性の意識としてあらわれるため、動物的な自我の求める幸福が否定されるときにはじめて、人間の真の生活がはじまるとトルストイは考えます。

人間の動物的な肉体の法則にしたがって生きることが人生だと思い違いをしてしまいますが、理性が人間にとっての法則であり、人間の判断の根本となっているものであるため、動物的な肉体を理性に従わせることが人生であり、人生の幸福はこの法則を実行することにかかっているとトルストイはいいます。

動物的な自我の求める幸福や、生存のしかたを人生のすべてだと考えて、われわれに定められた人生の仕事をこばむようなときには、われわれは真の幸福と真の生命を自分からすててしまうことになるのである。
(新版 人生論 85項より引用)

そのためトルストイは動物的な人間の肉体や生理学な研究、歴史や人類学の研究が人間を幸福にするといった考えの一切を否定しており、それらの研究によって得た知識は人間の心理や理性を理解するといった根源的な目的のために必要であり、それを理解することが幸福に繋がると考えます。

つまり、人生とは人間的な幸福に対する欲求であり、動物的な自我の幸福を否定することです。

そして理性をもった人間は自分の肉体のためだけに生きることはできず、自分一人の幸福だけを考えることはできません。

人が個人の幸福のみを考えるなら、他人もまた自分の幸福のみを考えるものとなり、それを知ったならば、個人の幸福を追い求めることは悪であり、それを生活の目的とすることはできないためです。

人は世界中のものから孤絶したたったひとりきりの存在だと認めないわけにはいかない。そのうえで、人は、そういった個人と個人の相互関係や、自分ひとりの幸福のはかなさを知り、理性の意識を満足させられるような幸福だけが、ただ1つ、ほんとうにたしかなものだと、認めるようになるのである。自分ひとりの幸福だけを手に入れようとする人の活動は、それこそ、人間生活の完全な否定にほかならないのである
(新版 人生論 118項より引用)

死について

トルストイは人間の生存の幸福を阻害している因子として、

1.個人的な幸福を求める人間同士の生存競争
2.生命の消耗と飽満、苦痛しかもたらさないみせかけの享楽
3.死の恐怖

を挙げており、死の恐怖は肉体の死によって、生命の幸福まで失われるという恐怖から起こるものだと考えます。

もし人が他人の幸福を自分の幸福と考えることができれば、つまりは他人を愛することができたならば死は、自分ひとりのために生きている人の思うように幸福と死の中絶とは考えることはできないだろう。他人のために生活している人にとって、死が幸福と生命を亡ぼすものだなどとは、考えようにも考えられないことなのである。
新板 人生論 134項より

そしてトルストイは人間には死は訪れないといいます。

それはキリストはじめ世界中の偉大な教師や人生の真理を理解した多くの人達も口を揃えて「死はない」と説き、それぞれの生活をもってその正しさを証明しているのだといいます。

トルストイはこれらについて論理的に述べているのですが非常に難解なため、私の理解が及ぶところで簡単に言えば、生命とは空間と時間とにしばられた物質のうちにひそむエネルギーの偶然の戯れ、変化であり、私たちが意識と呼んでいるものは生命ではなくて、ただの錯覚にすぎない、この一定の錯覚である意識は過去から未来まで続くときの中でほんの一刹那、経験されるだけで結局は無に等しい、つまり、生命は死のたわむれであり、ただの幻であり、このような人生観を持てば死はまったく恐れる必要のないものだということです。(ちょっとむずかしいですね)

人が肉体の死という観念をあんなにまでに恐れるのは、その生命が死とともに終わると思うのではなくて、肉体の死がついに持てずじまいになってしまった真の生命の必要を、はっきりと人に教えるからなのです。

死について考えること、思い出すことは理性の意識の要求どおりに自分が生きていないということを思い知らされるから、死は恐怖になるということです。

また、肉体の死はたしかに空間にしばられた肉体と時間にしばられた意識を亡ぼしはするけど、生命の根本を形作っている個々の生物のこの世界に対する特定の関係は亡ぼすことはできないとトルストイはいいます。

ここでトルストイがいう世界に対する特定の関係とは自我によって生じるこの世界との関係を自覚し、自分自身を知ることを指します。

肉体は時間的空間の中で絶えず変化しており、一秒たりとも同じ肉体はありませんが、その肉体が私のものとしてであるとつなぎとめているものが意識であり、意識もまた絶えず続いているものではなくてきれぎれに変化しています。(本書では意識の変化を睡眠を用いて説明)

これらをひとまとめにして「わたし」を形作っているのが自我であり、自我は肉体が消滅しても消えないと考えます。

生まれた時から「自我」があるということはこの世界との関係を理解しているということであり、それは生命の誕生(肉体の誕生)からはじめて作られたものではなく時間的な制約を受けていないのです。

だから肉体が亡びても自我は亡ぶことはなく、私は生き続けることができるだとトルストイは考えたのでした。

生命の本質はこの世界に対する関係だ。しかも、生命はたえず動いて、さらに新しい関係を形づくってゆく。だからけっきょく、死も新しい関係にうつる一つのきっかけにほかならないのである
(新版 人生論 134項より引用)

まとめ

トルストイは人は理性によって動物的な幸福(生存、繁殖、競争)を否定し、隣人を愛し、他人の幸福のために生きることが人生であり、自我を否定して愛に生きることによって生存競争の悲劇(戦争)や死の恐怖からも救われると考えます。

これらの人間の理性に関する考察はトルストイの宗教観によるところが大きく、トルストイの文学作品を通してもよく知られるところだと思います。

後半の死生観については、個人の生命は全体の生命にうち溶け込んで、永遠の生命をうけるために死に恐怖する必要はなく、その意味を理解せずに動物の水準まで身を落としてたときに死や苦痛が目の前に現れるといいます。

トルストイの人生論は非常に難解で読みづらいのですが、この人生観、死生観についてはくどいぐらい繰り返し述べられており、60歳を迎えるに当たってトルストイが自身の不合理な死と向き合い、自分自身に言い聞かせるように書いているようにも感じます。

宗教に救いを求めたり、科学や歴史に救いを求めたり、その時代がもつ背景によって繰り返されているようにも思いますが、私自身の今のテーマは「動物であることの自覚」であり、それによって自然や人に対してあるべき姿や本来の人間の能力や健康について考えています。

トルストイ的にはアウトかもしれませんが、結局は生について、人生について自分なりに真剣に考えるということが大切なのだと思います。

そしてトルストイの言うところの利他的に生きることは生物としての人間にも遠い昔の祖先から備わっている人間らしさの一つであることがわかっており、時間的な空間を超えた自我なども遺伝子やエピジェネティクスなどの科学的な方法で説明ができるようになってきました。

それはトルストイの時代より科学が自然観を内包するようになってきたことが背景にもありますが、私自身は科学は決して宗教が説く愛や奇跡と相反するものではないと思っています。

この時代にトルストイが生きていたとしたらどんな人生観を描くのか、きっともう少しだけわかりやすく合理的に人生観が書かれていたのではないかと思います。

ともあれ、トルストイの人生への思慮の深さが時代を超えて愛され、語り継がれる名著を生み出し、いまも尚多くの人に影響を与えてることを考えれば、肉体が亡んでも、自我は生きているとトルストイ自身が人生を持って証明したともいえます。

自分の人生によってひとをうるおすためには、第一に、自分ひとりの幸福のため他人からうばいとっている余分なものを、いっさいすててしまわなければならないのだ。そのうえで自分の生命をかたむけ尽くして、この多くの人のうち、誰に奉仕したらいいかという問題を解決しなければならないのだ。本当に愛することができるようになるのは、つまり、自分というものを犠牲にして幸福を実現できるようになるには、まず憎むことをやめて不幸のもとを断ってしまうのだ。
トルストイ 新板 人生論 178項より引用

最後までお読みいただきありがとうございました。

本日の紹介図書
トルストイ著 「人生論」 角川文庫

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