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自然の力は人知をはるかに超えている

34歳の時に、整体とトレーニング理論を学ぶために学校に通い始めた。22歳の時にトライアスロンと出会ってから、人間の身体について興味を持ち続けて、ようやく本格的に学べるようになって、楽しい毎日が始まった。

人間の身体を学ぶにつれて、その精密さに驚いた。
筋肉の付き方、骨の形、その機能と形状が実に機能的にできている。

誰がこんなことを考えたのか。
設計者がいるのか。
どうしてもそう思えてならない。

でも、そんな人はいない。
誰が設計したわけでもなく、それは自然が作り上げた造形なのだ。

すべてに意味があり、無駄なものはないと思われる。
(本当に無駄がないのかどうかは議論の余地はあるのだろうけれど)

僕が特に好きなのは、ひじの関節の形状。
これはすごい。
どう考えても、人工のモノなのではないか、と思ってしまう。

僕は肘関節フェチだと公言している(笑)

科学は自然を後追いしている

現代人は、現代の科学は万能であるという錯覚を持っているのではないかと思う。

科学的に証明されたことが正しく、それに従っていれば間違いないという感覚を持っているようだけれど、それは幻想というものだ。

なぜなら、人類は自然からたくさんのことを学んでいるからだ。
自然が先にあり、それを科学的に解明していく。
科学は自然を後追いしているにすぎない。

まずは現象が先にあり、それを科学者が解明してく。
まずは、骨があり筋肉があり、それを切り刻んで体系化したものが解剖学。
いつでも、自然が先にあり、科学があと追いかけて、人間は自然からいろいろなことを学んでいる。

人類の叡智など、自然の前では未熟すぎて話にならない。
それくらい、人体は精巧にできている。
そして、自然は奥が深いのだ。

解剖学を学ぶだけでも、そのすごさがわかる。
ましてや、生理学などを学んでみれば、その凄さに驚愕するだろう。
人類が自然をコントロールできると考えることが、どれほどおこがましいことかがわかるというものだ。

学校での学びは驚きの連続だった

人間の身体を学ぶと、科学的に解明できていないような現象を目の当たりにすることがある。

しかし、人体の複雑さと精巧さからすれば、人間の科学力が解明できていないことが沢山あるということは当たり前のことだ思うようになる。

したがって、科学的に解明できていないことは眉唾物であると言い切ることはできないと思うようになった。
科学は万能ではないのだ。

現象はそこにある。
ただ、科学的に理屈がわからないことが沢山あるということだ。

こういう驚くべき現象も含めて、自然の力をまざまざと見せつけれられる毎日だった。

それはとても刺激的だったのだ。

自然治癒力が最強

僕が、人体を学んだことで得た結論は、人間の科学力など自然の前では無力だということだ。
だとすれば、やはり自然の力をいかに利用するか、ということを考えたほうが良い。

自分が本来持っている治ろうとする力(自然治癒力)を引き出すことこそ、自分が健康でいるために最善の策だということだ。

自分がすでに備わっている力を最大限に引き出すためには、その機能が十分に発揮できるような環境を整えることが大切なのだ。

それが、僕の考え方のベースになった。

自然から離れてしまうことは、自分が持っている自然の力を発揮できなくなることを意味している。
そうなった時に、人間の持つ科学力では補うことはできないのだ。

僕がうつ病になった時、薬ではこの病を治すことはできないだろうと、直感的に思ったことは間違いではないと確信を持った。

薬はあくまでも補助である。
治すのは、自分の治癒力である。

僕はそう確信した。

(つづく)




自分がうつ状態に陥って、そこから這い上がってくる過程で考えたことなどを書いています。自分の思考を記録しておくことと、同じような苦しみを抱えている人の参考になればうれしいです。フォローとスキと、できればサポートをよろしくお願いします!